AmazonのベゾスCEOの離婚が報道され、驚きをもって迎えられました。
なかでも、資産総額15兆円と世界一の大富豪となったベゾス氏の財産分与の話題で持ちきりとなりました。
しかし、それ以上に今回の離婚は、これからのAmazon経営そのものに暗い影を落としていくかもしれないのです。そもそも、Amazonはマッケンジー前夫人なしでは創業すらできていなかったのです。
目次
Amazonベゾス氏の不倫と離婚
広瀬氏のTwitterからの紹介
まず、米国株投資で著明なアナリストである広瀬隆雄氏のTwitterをリンクで添付してみましょう。
奥さんだったマッケンジーはこちら。 pic.twitter.com/HrBzwdeEc5
— Gone Fishing (@hirosetakao) January 10, 2019
ベゾス氏の不倫相手
上の女性がベゾス氏の不倫相手であるローレン・サンチェスさんです。
元テレビアナウンサーである彼女の写真からは、あまり品位を感じることはできません。
マッケンジー前夫人
下の女性が、マッケンジー元夫人です。写真からも知性が感じられます。
プリンストン大学を優秀な成績で卒業したマッケンジーさんは、ベゾス氏が副社長のヘッジファンドに入社します。
そして、1993年に2人は結婚します。
しかし、結婚1年後に1994年にベゾス氏は、インターネットでの書籍販売の起業を夫人に打ち明けます。『仕事を辞めてこのクレイジーなことをやりたい。でもほとんどのスタートアップは失敗するから、たぶんうまくいかないと思う。その後どうなるかはわからない。』と話したのです。
マッケンジー夫人は、『是非、やってみよう』とベゾス氏の肩を押し、2人は豊かな生活を捨て、ニューヨークからシアトルに引っ越すことになったのです。
ベゾス氏がAmazonで成功した最大の理由は、理解し支えてくれたマッケンジー夫人の存在です。夫人がリスクを背負うことを覚悟したからこそ、起業し常に前進することができたのです。
夫人は『幸運をもたらす妻』といっても言い過ぎではありません。
歴史上でも、『幸運をもたらす妻』との離婚で、短期間で栄華から転落した人物は数え切れません。そのなかでも、今回フランス皇帝ポナバルト・ナポレオンを例にあげていきましょう。今後のAmazonを暗示しているかもしれません。
砲兵士官から皇帝にまで登りつめる欧州の覇者ナポレオン
未亡人ジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌにとってナポレオンは、2人目の夫です。
前夫はフランス革命で貴族のために処刑されました。2人の子を抱える未亡人となったジョゼフィーヌは、急場をしのぐために、つぎつぎと大物家の愛人となっていきます。当時は大物政治家バラスの愛人となっていたのです。
そのバラスこそ、不遇時代のナポレオンを見いだした政治家だったのです。
バラスの紹介でナポレオンは26歳のときに、ジョゼフィーヌに出会います。ジョゼフィーヌ32歳でした。
ジョゼフィーヌは、決して美人ではないものの、しなやかな姿から醸し出される官能的な雰囲気は、それだけで優雅な貴婦人そのものでした。
ナポレオンはそんなジョゼフィーヌの虜になり、そして求婚します。
当時、バラスの愛人ハーレムは飽和状態で、浪費癖がいっこうに抜けないジョゼ フィーヌと縁が切れないものかと思いめぐらしていたところでした。ナポレオンがジョゼフィーヌと結婚してくれれば、スムーズに厄介払いができるというものです。
バラスにナポレオンにイタリア方面司令官という肩書を与えるとともに、ジョゼフィーヌには高額な寡婦年金を約束しました。そうして、ようやくナポレオンの求婚を受諾しました。
イタリア戦線でヨーロッパ中のとどろくナポレオンの名声
結婚後、ナポレオンはすぐに最高司令官としてイタリアの派遣されます。そこから一日何通もの熱烈な手紙をよこします。
しかし、ジョゼフィーヌは、『ポナバルトって変な人』と手紙をろくに読みもしない『ポィ』と投げ捨て、遊びにでかけます。実は彼女には新しい不倫相手がいたのです。イッポリト・シャルルという若い陸軍中尉でした。
そうとは知らず、ナポレオンは、『君から離れたらこの世は砂漠だ。毎日考えるのは君のことばかり』と書き続けたのです。
ナポレオンがイタリア方面軍司令官に着任したとき、将軍たちは『妻のおかげで、最高司令官に任命された何の実績もない26歳の若僧』と冷ややかに接していました。 事実、ナポレオンにはまだ大軍を指揮した経験はなく、司令官としての実績はゼロなだったのです。
しかし、開戦と同時に、将軍たちの疑念は一掃されます。
フランス軍は、革命の混乱から物資の補給も滞り、服の支給もなく銃すら行き渡らず、乞食の集団とも見えるほどの惨状でした。
対する北イタリアを支配するオーストリア軍はヨーロッパ最強とも称され充実した装備を備えていたのです。
しかも、オーストリア軍は兵力8万に大砲200門。対するフランス軍は、3万人に大砲はわずか30門に過ぎませんでした。
戦力差は歴然で、勝敗は誰の目にも明らかのはずでした。
しかし、ナポレオンの指揮するフランス軍は、神出鬼没に出現し、兵力を一点に集中させ、オーストリアの大軍を各個撃破していきます。ついに、オーストリア軍は壊走し、首都ウィーンに逃げかえっていきました。
今まで連戦連敗であったフランス軍の勝利に、パリの民衆は興奮に沸き立ちます。ポナバルト・ナポレオンの名もヨーロッパ中に響き渡ることになるのです。
エジプトで知った妻の不倫
イタリア戦線で勝利を収めたナポレオンはエジプト遠征に着手します。イギリスの要所エジプトを抑えることでイギリスの植民地経営に打撃を与えることが目的でした。
エジプトに上陸したナポレオン軍は、短期間でイギリス陸軍を一掃します。しかし、ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、フランス海軍を撃滅しました。ナポレオン軍はエジプトで孤立します。
そのときネルソン提督が指揮をとった艦船の名があの『バンガード』です。インデックスファンドを誕生させたバンガード社の由来なのです。
エジプトで孤立したナポレオンは、ジョゼフィーヌの不倫を知り、ショックのあまり兄に手紙を出します。
『私は今、家庭内のことで悲嘆に暮れているのです。お兄さん。この地上で私に残されたのは、もうあなただけなのです。』『もう、人間の本性に嫌気がさしてきました。今は孤独でいたいです。栄光も、もう嫌です。』
この手紙を載せたフランス船はネルソン提督に捕獲され、イギリスの新聞で公表されてしまいました。鉄の意志を持つ無敵の軍人らしくないセンチメンタルな文章。さらに、『余の辞書に不可能の文字はないと』豪語するナポレオンが、妻を手なずけることすら『不可能』であることにイギリス人は笑い転げました。
ナポレオンは、離婚の決心を固めエジプトから帰還します。そうして、ジョゼフィーヌの家財道具をすべて家の外に放り出し、ドアに鍵をかけて部屋に閉じこもったのです。部屋の前に、一晩中ひざまずいて泣きながら必死に許しを請うジョゼフィーヌに、 何時間もたってようやくナポレオンもドアを開けて姿を現わします。ナポレオンも目を真っ赤に泣き腫らしていました。
名ホスト役となるジョゼフィーヌ
その後、ジョゼフィーヌは、だたひたすらナポレオンのために生きていき、極めて有能な妻となっていくのです。
ナポレオンはフランス社会を安定させるために、革命前の古い社会と革命期の新しい社会との融合を基本目的としました。
しかし、フランスの貴族社会とは全く縁がないナポレオンは、政府の要人とのつながりはそれほど多くはありませんでした。逆に、ジョセフィーヌは貴族社会を熟知し広い人脈を持っていました。さらに、過激な革命家ともつきあえるような非常に幅の広い女性だったのです。
その上、人が何を考えているか、あるいは、この人とこの人を仲良くさせるにはどうすればいいかというように人を動かすことについては、天賦の才能があったのです。
クーデターの成功、そして皇帝就任
1799年ナポレオンはブリュメール18日のクーデターで、第一執政に就任し、フランスの最高権力者の座につきます。クーデターの際には、ジョゼフィーヌは自宅に政治家や官僚、軍人を招き、ナポレオンの敵だった相手を次々と身方に引き入れていきます。
ナポレオンが権力を掌握し革命が終わると、国外に亡命していた多くの貴族はフランスに戻ってきました。その中にはナポレオンは嫌だがジョセフィーヌがいるのなら言う貴族も少なくありませんでした。
そのような貴族たちをジョゼフィーヌはナポレオンに紹介しました。そうして、ジョセフィーヌのサロンでは革命中であればお互い殺し合うような古い貴族と勇ましい革命家が並んで談笑するようになっていのたです。
しかも、サロンからもたらされる情報には多くの貴重な内容があり、秘密警察長官ですらジョゼフィーヌを無視することができなくなっていたのです。
ナポレオン政権下で、ジョゼフィーヌの働きは不可欠となっていくのです。
1804年、ナポレオンは皇帝に即位し、ジョゼフィーヌも皇后として戴冠します。その後の数年は生涯でもっとも栄光に満ちた日々となります。
国民から愛される皇后ジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌのもう一つの欠点である浪費癖は、生涯改善されることはありませんでした。しかし、夫がヨーロッパ全域を支配する皇帝である以上、大きな問題になならなかったのです。
さらに、皇后としてジョゼフィーヌは、フランス国民から絶大な人気を誇りました。同じ浪費家であっても、一つ前のファーストレディであったマリー・アントワネットが忌み嫌われたのとは大きな違いでした。
それは、ジョゼフィーヌが誰とも気さくに接し、貴族のように他人を見下す態度が無かったからです。
皇帝夫妻として、地方を巡回した時に、行く先々で歓迎式典とレセプションが繰り返されました。その式典で、地方の名士が列をなして陳情を行います。ナポレオンのほうはうんざりして途中で姿を消すことが多かったものの、ジョゼフィーヌは最後の一人に至るまで話を聞き続け、にこやかに挨拶を交わしていくのです。ジョゼフィーヌの人気は高まり、政権基盤を安定していきます。
さらに陳情は政治にも反映されていったのです。経済発展のために銀行が創設されました。資本家の資産を守る民法が制定されていきました。さらに、身分に関わらず受けられる教育制度も整えられていきました。レジオンドヌール勲章もナポレオン時代に制定されたのです。現在のフランス資本主義の多くは、ナポレオン帝政下でもたらされたのです。
対外でも、プロシア、オーストリア、ロシアが反フランス同盟軍を次々と打ち破り、その欧州全域の支配権を確立していきます。
離婚後の暗示される帝国の崩壊
世継ぎのための離婚
しかし、帝国の繁栄を永続させるためには、世継ぎが必要です。ジョゼフィーヌは年齢も40代半ばとなり、もはや跡継ぎを期待することは困難となってきました。
1810年ナポレオンは離婚を決意します。ジョゼフィーヌは、泣き崩れました。しかし、皇后を称することや、莫大な年金も約束されたことから、離婚を承諾し、テュイルリー宮殿を去ります。
帝国崩壊の予兆
新皇后としてオーストリアのハプスブルク家からマリー・ルイーズが迎えられました。フランス国民から忌み嫌われたマリー・アントワネットと同じオーストリア帝国の皇女です。次第に、人々の心はナポレオンから離れていきます。
しかも、生まれながら皇室で何不自由なく育ったハプスブルク家の皇女がジョゼフィーヌの代わりがつとまるはずがありません。
離婚後、絶頂を迎えていたナポレオン栄華は暗転していきます。その後たった4年でナポレオン帝国は崩壊していくのです。
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