前回の記事で、YouTuberのようなクリエイティブな仕事は、AI時代でも消滅することはないと説明しました。
現在、多くの小学生にとって人気YouTuberは憧れの職業になってます。しかし、親世代の多くは、そのような子供たちの考えに不安を感じています。
そのためのヒントがシェイクスピアの人生にあると考えます。今回、シェイクスピアの人生を概観してみましょう。
目次
シェイクスピア家の興隆と衰退
興隆するシェイクスピア家
ウィリアム・シェイクスピアは、1564年にイギリスの地方都市ストラットフォードで生まれました。当時、ストラットフォードは商業都市として栄え、現在もその面影を残しています。
父ジョンは、羊毛仲介業で財をなし、町長も務めた地元の名士です。
富裕層の子弟であったシェイクスピアはグラマー・スクールに通うことになります。現在の小中学校に相当します。
衰退するシェイクスピア家
しかし、シェイクスピアが13歳ごろになると、出世街道をひた走っていた父が没落していきます。もはやグラマー・スクールを卒業させる資金はありません。
現在、グラマー・スクールの名簿が散逸し、シェイクスピアが卒業したのか中退したのかを確認することはできません。しかし、少なくとも、卒業する15歳以降の高等教育は受けることはなかったのです。
父の没落は、少年であったシェイクスピアの心に深く刻み込まれることになります。
しかし、多感な時期のそのような経験は、人生への深い洞察を深めることなり、将来の『リア王』や『マクベス』を生み出す下地となっていくのです。
シェイクスピアは、傾いた家業を手伝うものの、家業に復興の兆しはいっこうに見えません。
できちゃった婚
18歳となったシェイクスピアは、8歳年上の26歳の農場経営者の娘を妊娠させてしまいます。結局、できちゃった婚をすることになるのです。
20歳のときには、双子も誕生します。
家業も衰退の一途をたどり、3人の子供を抱える若きシェイクスピア。将来に不安を抱いていたことは想像にかたくありません。
経営者シェイクスピア
エリザベス女王時代の演劇ブーム
当時、エリザベス女王の優れた統治により、産業が育成され、当時弱小国であったイングランドも発展の途を歩みはじめました。首都ロンドンも好景気に沸き、演劇がブームとなっていきます。
もともと劇団の俳優は街から街を放浪する流れ者に過ぎません。ロンドン市当局は、演劇ブームで、風紀が荒れることを懸念します。保守層も子弟が演劇にかぶれないよう警戒します。現在のYotuuberと同様です。
それでも、多くの若者が一旗揚げるために、ロンドンの劇団に身を投じました。
俳優となるシェイクスピア
シェイクスピアもそのような若者の一人となり、劇団の俳優として道を歩みはじめることになったのです。20歳のときです。
その後、俳優から次第に脚本も書くようになります。さらに、その脚本を上演する劇団も経営するようになっていくのです。
劇団経営者シェイクスピア
6年が経過し、26歳となったシェイクスピアは、人気劇団の経営者として注目を浴びる存在となっていました。
劇団を運営しながら、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『真夏の夜の夢』のような傑作を次々と生み出していったのです。
シェイクスピア劇では、ジュリアス・シーザーのような英雄ですら、私自身と同様に喜びや悩みながら生きるづける一人の人間として描かれます。
観客はそこに自分自身を投影し、登場人物になったような錯覚を覚えるのです。シェイクスピアの経営する劇団は好評を博するようになります。
低学歴の『成り上がり者のカラス』
しかし、高まる人気と裏腹に、専門家からの評価は芳しくありません。
『ヴェニスの商人』の舞台は、水の街ヴェニスです。移動するには、運河を移動するゴンドラしかありません。しかし、シェイクスピア劇の登場人物は、馬車で移動するのです。
批評家からは、無教養と批判されます。
『真夏の夜の夢』は、いたずら好きの妖精が惚れ薬によって引き起ここすドタバタ恋愛喜劇です。
設定からもワクワクしそうですが、脚本を手がけるのは天才シェイクスピアです。面白くないはずがありません。
しかし、批評家からは、荒唐無稽と批評されるのです。
演劇市場の拡大に従い、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で優れた教育を受けた若者も、脚本を手がてるようになります。中学卒の学歴しかないシェイクスピアは『成り上がりのカラス』と嘲笑されます。
ビジネスマンとしてのシェイクスピア
しかし、そのような批判にさらされても、シェイクスピアは実に穏やな姿勢を貫きます。人生の達人と言ってもいいかもしれません。
シェイクスピアは演劇のエピローグになると、観客に向かって謙虚に頭を下げ、次回の公演での一層の努力を約束するのです。次々と人気作を生み出す才能にもかかわらず、謙虚な姿勢から、『ジェントル・シェイクスピア』とも呼ばることになります。
そのようなビジネスマンとしての姿勢がシェイクスピア成功の秘訣と言っても過言ではありません。
しかし、所詮、演劇の興行は水ものです。必ずヒットする保障はありません。また、ロンドンにペストが大流行し、劇場が2年も閉鎖になったこともあります。
投資家シェイクスピア
脱税
シェイクスピアは、劇団の経営者としてリスクを減らすことにも努めます。
まず、コスト削減に取り組みました。
シェイクスピアは脱税の常習となっていきます。税金滞納者リストにウィリアム・シェイクスピアの名が幾度とな載ることになるのです。追徴課税を課せらた記録もあります。
それでも懲りないシェイクスピアは、裁判所に付託されることにもなったこともあります。
確かに、脱税は褒めらることではありません。しかし、劇団経営者として、少しでも税金を減らし資金ぶりに余裕を持たせることに苦心していたことが忍ばれます。
訴訟
シェイクスピアが未収金を求め、裁判をした記録もあります。
劇団経営には、金銭トラブルは日常だったのかもしれません。
不動産投資
収入のポートフォリオを劇団経営以外にも広げていきます。
まず、不動産投資を始めます。
当時、オランダで毛織物工業が急速に発展していました。毛織物の需要はアメリカ大陸にも及び、市場は拡大の一途をたどっていたのです。そのオランダに毛織物の原料となる羊毛を輸出していたのがイギリスでした。
イギリスで台頭しつつあるブルジョワ階級は、羊毛を輸出するために、出資者を募って農地を買いあさり、小作人を追い払いました。そうして、その土地を柵で囲い、羊の放牧地としました。世に言う『囲い込み』運動です。
シェイクスピアも、多くの牧草地に出資することで、安定した賃料を得ることに成功します。
穀物投機
シェイクスピアは、穀物投棄にも手を出していきます。
『囲い込み』により小作人が農地を追われて、農村は崩壊していきました。
シェイクスピアは、農地の減少から、小麦価格の高騰を予想します。そうして、倉庫を確保し、大量の小麦を貯蔵するのです。
予想通り小麦価格が高騰すると、高値で売却し大きな利益を得ます。
不動産投資や、穀物投機による収入から、いっそう劇団経営も安定します。
劇団経営
本業の劇団経営にも手を抜くことはありません。
より多くの観客を動員し、資金の回転効率を上げるために、巨大劇場であるグローブ座の建設にも取り組みます。建設資金を回収するため積極的な宣伝を行うとともに、公演のクオリティを少しでも高めるために監督として役者に細かく指示を与え、興業の成功に努めます。
さらに、観客を飽きさせないために、新作も精力的に発表します。そうして、『ハムレット』、『リア王』、『マクベス』のような傑作が次々と生み出さたのです。
しかし、シェイクスピアにも衰えがきます。シェイクスピア晩年の『冬物語』や『テンペスト』は、いまいち人気がありません。
創作力の枯渇を感じたシェイクスピアは49歳で引退し、劇団もすべて売却しました。その利益でロンドンの優良不動産を買いあさり、その賃料で悠々自適の生活を送ることになるのです。
シェイクスピア再評価
忘れ去られたシェイクスピア
演劇界では、常に新しい新作が求められていました。演劇界から引退したシェイクスピアは、次第に過去の人物となっていきます。
1616年にシェイクスピアは52歳で永眠します。その時は、すでに忘れ去られた存在となっていました。誰一人、歴史上もっとも偉大な文豪と称させる日が来ようは考えるはずもありません。
シェイクスピア崇拝
しかし、年を追うごとに、シェイクスピアの作品の評価は高まっていきます。
18世紀末から19世紀初頭のフランス革命の激動の時代となり、文学作品ではロマン主義が台頭しました。そこで、熱狂的なシェイクスピア崇拝が起こってくるのです。
死後400年の2016年。シェイクスピア没後400年を記念し、世界中でシェイクスピア劇が公演されました。シェイクスピアは、イギリスに留まらず人類の文化遺産となったのです。
シェイクスピアから学ぶこと
前回、シェイクスピアの人生が、youtuberに憧れる子供たちにどのように接するかのヒントとなると述べました。そのため、今回でシェイクスピアの生涯について紹介してみました。
次回、シェイクスピアの人生から、Youtuberに憧れる子供たちにどのように対処すればいいかを具体的に考えていきましょう。
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