S&P500インデックスETF『VOO』や、アメリカ市場のほとんどをカバーするETF『VTI』は、もっとも推奨できる投資先です。
しかし、海外投資には私たちが見逃してしまう隠れたリスクが潜んでいるのです。今回は、そのリスクについてお話していきましょう。
目次
S&P500
70年で5000倍となるS&P500
アクティブ投資で巨万の富を築いたバフェット氏も、個人投資家にはS&P500インデックスを推奨しています。
2018年5月5日に、バフェット氏の経営するバークシャー・ハサウェイの株主総会が開かれました。そこで、S&P500インデックスがいかに投資家に利益をもたらすかが伝えられました。
1942年にS&P500インデックスファンドに1万ドルを投資していれば、今では5100万ドルの価値になっているというのです。
ドル円が100円として換算すると、たったの70年少しで100万円が51億円なる計算です。
しかし、そこには極めて重要なリスクが見逃されているのです。現在、そのリスクが不気味な姿を現しつつあるのです。
資産額が0になるS&P500投資
もしも、私たちの先祖あたる日本人が1941年1月にS&P500に100万円を投資していたとしましょう。現在その金額はどうなっているでしょうか。
結論は0円です。
どういことなのでしょうか。
明治時代の日米関係
日露戦争終結の仲介
明治時代には、日米関係は比較的に良好に推移していました。
それゆえ、日露戦争終結にむけた仲介を、セオドア・ルーズベルト大統領は引き受けることにしたのです。
もちろん、米国にも打算もあることは言うまでもありません。満州市場です。米国は、急激に発展する産業のために、新たな市場を必要としていたのです。
セオドア・ルーズベルト政権について、以前に記事で紹介していました。
-
-
【アメリカタバコ帝国の崩壊】タバコ王デュークの栄光と挫折 その2
前回の『タバコ王デュークの栄光と挫折 その1』の内容を簡単に振り返ってみましょう。 デュークは短期間でアメリカのタバコ市場を支配し、タバコ王との異名をとることとなりました。その後もイギリスのタバコ業界 ...
満州市場を巡る対立
当初、日本は手に入れた満州の鉄道経営をアメリカの鉄道王ハリマンと共同で行う予定でした。
しかし、日露講和全権大使の小村寿太郎が反対し、日本の単独経営となります。さらに、アメリカ製品は、満州から閉め出されることになったのです。
次第に、満州の利権をめぐって、日本と米国の対立が深まることになります。
第一次大戦後の日米関係
緊密となる経済的取引
しかし、第一次大戦後に、状況が変わってきます。
戦場となったヨーロッパ諸国の国力が低下する一方、新興国であった日本とアメリカの地位が急激に高まっていきます。満州市場での対立はあるものの、両国の経済的なつながりは一層密接になっていくのです。
日本にとって最大の輸出相手もアメリカとなります。日本の主力製品である生糸の4割がアメリカの輸出されることになったのです。
アメリカにとっても、日本はカナダ、メキシコに次ぐ重要な輸出相手となります。
日本はアメリカから石油や工作機器、鉄鋼を輸入していました。特に石油について8割をアメリカからの輸入に頼っていたのです。
共産主義への警戒
さらに、第一次大戦中にロシア革命が起こり、共産主義国であるソ連が誕生します。
労働者のユートピアという宣伝の裏で繰り広げられる粛正と暴政から、アメリカ共和党政権は警戒を強めていきました。そうして、共産主義の浸透を防ぐには、日本との協調路線が不可欠と考えるのです。
フランクリン・ルーズベルト政権の対日政策
大恐慌
しかし、1929年のニューヨーク株価大暴落から始まった大恐慌がすべてを変えていきます。
銀行が連鎖倒産し、失業者が街に溢れるようになります。多くの知識人が資本主義に疑問を抱くようになっていったのです。
さらに、5カ年計画によりソ連は、西欧諸国に並ぶ工業国に発展します。エリート層の中で共産主義に共鳴する雰囲気が次第に強まっていきます。
フランクリン・ルーズベルト政権の共産主義融和政策
そのような中で、1933年に民主党フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任しました。
民主党政権は、共産主義に融和的な政策をとり、いち早くソ連を国家として承認します。その結果、アメリカ国内に、多くのソ連工作員が送りまれることになったのです。
大恐慌が長引くなかで、大規模な公共事業により失業対策を行う『ニューディール政策』も実施されます。それにより、政府が肥大化を招き、官僚の定員が加速度的に増加しました。そうして、共産主義者がたやすく政府機関に入り込むことになったのです。しかも新規の政府機関には古参職員がいないことから、若手の職員がすぐに実権を握ることになります。
レーニンの描いたシナリオ
このようにしてソ連の工作員がアメリカ政府中枢へと食い込むことに成功しました。そうして、ロシア革命直後にレーニンが唱えたシナリオを実現させていくのです。
シナリオとは、日本とアメリカとの間の対立を煽り、戦争を引き起こすことです。
第一次大戦により強国となった日本と米国を戦わせ、その際にアメリカを使って日本を敗戦に追い込む。そうして、権力の空白となった中国と朝鮮で共産主義政権を誕生させる。さらに敗戦後の日本の混乱を起こし、共産化を実現させるのです。
レーニンは、このようなシナリオを1920年の時点ですでに描いていたのでした。
アメリカ政府に入り込んだ工作員は、その実現のためにモスクワからの指示を忠実に実行していきます。
工作員が立案した政策により、フランクリン・ルーズベルト政権は、ますます共産主義と融和する外交政策となっていくのです。
対日強硬政策
一方、日本への強硬姿勢を鮮明にしていきます。
日本は、アメリカと対抗するために、ヒトラーのドイツ、そして、ムッソリーニのイタリアに接近し、日独伊三国同盟を締結しました。
ヒトラーとの同盟国となった日本に対し、アメリカはさらに態度を硬化させ、石油の輸出制限に踏切ります。
1939年にドイツのヒトラーは、ポーランド侵攻し第二次大戦が勃発しました。
翌年の1940年6月にヒトラーは、1ヶ月でフランスを征服し、ヨーロッパ大陸の覇者となります。そうして、7月にはドイツ・マルクによる『欧州新経済秩序』を発表するのです。
ヒトラーの栄華は、永続的に続くかに見えました。
S&P500インデックスへの投資
翌年1941年の1月に私たちの先祖が、S&P500のインデックスに投資をしたこととしましょう。
果たして、いかなる結末が待ち構えているのでしょうか。
対日資産凍結
アメリカによる石油輸出制限により、次第に日本は燃料料不足に陥っていきます。
1941年7月24日、日本はフランスの植民地であった南インドシナに進駐します。そこには、石油だけでなく、天然ゴムや鉱物と豊富な資源が産出されます。
インドシナ進駐によりアメリカはさらに日本に対して強行な姿勢に傾いていくのです。
2日後に、アメリカは日本に対して、石油の輸出を禁止します。
さらに、日本人の『在米資産凍結』を行いました。
資産凍結とは、日本の政府や個人・企業がアメリカに持っている資産を、すべてアメリカ政府の管理下に置くということです。
当時、イギリスのボンドにかわり、米ドルが国際決済通貨としての地位を確立していました。
個人資産凍結
日本は、横浜正金銀行のニューヨーク支店をドル貿易決済の最大拠点としていました。そのニューヨーク支社で日本の米ドルのほとんどが置かれていたのです。
資産凍結により、米ドルが使えなくなっていきます。
金融資産が凍結された後も、米国にはまだビジネスマンなど多数の日本人が暮らしていました。彼らは、生活のために一人につき月額500ドルだけ引き出すことが許可されたました。しかし、それ以上の資金については、自分の口座から引き出すことができなくなったのです。
また、アメリカには、多くの日本人移民が暮らしていました。彼らの多くは、アメリカで稼いだ資金を日本に送金していました。その送金も1回につき3ドル程度に上限が設定されたのです。しかも、その送金さえもアメリカ政府の許可が必要となったのです。
S&P500インデックスの資産凍結
先祖が1941年に投資したS&P500インデックスも資産凍結されることになります。
売却もできません。証券口座が凍結されているために、残っている米ドルを日本円への変更することはもちろん、自分の銀行口座に資金を移動させることもできません。
国際貿易の終焉
さらに、貿易代金に支払いも資産凍結のために不可能となります。
当時日本は石油、木材、食糧などのアメリカからの輸入許可証を得て、貿易船に積載していました。しかし、ドル決済ができないため船はアメリカの港に停泊したまま留め置かれることになります。
貿易のドル決済を担っていた横浜正金銀行ニューヨーク支店は貿易代金だけは凍結解除してほしいとアメリカ政府に依頼するも、認められません。
次第に、日本は国際貿易から締め出されることになっていきます。
1941年10月24日、米国政府は、『横浜正金銀行のニューヨ ーク支店が破綻すること』『アメリカが凍結している日本の保有ドルは恒久的に封鎖されること』を日本に通達します。
横浜正金銀行ニューヨーク支店が破綻することは日本にとって国際貿易の終焉を意味します。石油の確保が不可能となった日本は、日米開戦を決断することになるのです。
真珠湾攻撃は、52日後に迫っていました。
応援クリックして頂けると励みになります