前回、シャネルが実業家として成功するものの、最愛の男性と死別するところまで記事にしました。
目次
イタリアで蘇るシャネル
女性の親友ミジア
シャネルは、悲しみのあまり、部屋のすべてを黒一色とし引きこもってしまいます。そんなシャネルを助けたのは、女性の友人ミジアでした。
ミジアは、画家ルノアールのモデルを務めたこともあり、芸術家サロンの女王のような存在です。
再婚したばかりのミジアは新婚旅行先のイタリアに、シャネルも連れていくことにしました。新婚旅行に友人を連れているような自由奔放な女性。だからこそ革命児であるシャネルと生涯にわたって友情を保つことができたのかもしれません。
イタリア旅行
シャネルは魂の抜けた影のようにミジアについてイタリア各地を回りました。
イタリアの太陽と海はシャネルの沈んだ心を和らげていきました。
ヴェニスやフィレンツェの美術品のような街は、シャネルの創作意欲に火をともします。
シャネルの心に変化が生じました。
私馬鹿だわ。人生は始まったばかり。みなし児の悲しみぐらい何なのよ。
ココ・シャネル
シャネルに、気力が湧き、仕事への情熱が高まってきたのです。
成長するシャネル社
もう仕事しかありません。
経営はおどろくほど順調に成長していきます。シャネルはそんな拡大する会社を細部まで把握し、経営の指揮を執っていくのです。
ロシア皇帝の従兄弟との恋仲
ディミトリ大公
シャネルは、華麗な恋愛遍歴も重ねていきます。恋愛遍歴ごとに画期的な新作を発表していくのです。
シャネル37歳のときに、10歳年下の美男子ロシアのディミトリ大公と出会います。大公はロシア最後の皇帝ニコライ二世の従兄弟で、ロシア革命で国を追われ、パリに亡命していました。困窮していた大公をシャネルが支援したことから恋仲となっていったのです。
シャネルの5番
そこから画期的な新作が誕生しました。香水『シャネルの5番』です。
ロシアこそ、香水の本場です。ディミトリ大公はシャネルにロシア人調香師を紹介しました。
シャネルは新しい香水の開発に着手します。
いままでの香水は、花の香りに限られていました。シャネルはその伝統を断ち切り、香りのみを追求します。そうして、『シャネルの5番』が誕生したのです。
『シャネルの5番』は、香水としては驚異的なロングセラーとなっていきます。
イミテーション・ジュエリー
『イミテーション・ジュエリー』も創作されます。
ディミトリ大公は、シャネルにビザンチン様式の十字型の飾りを贈りました。シャネルは、その美しさに惹かれていきます。宝石の大きさではなく、美術品としての美しさに魅了されたのです。
当時、上流階級の女性たちは、いかに大きな宝石をつけてるかで財力を競っていました。
首のまわりに小切手をつけているようなものだ。
ココ・シャネル
夫の富のもとでしか存在しようとしない女たちをシャネルは軽蔑しました。宝石の大きさを意味のないものとするために、本物の宝石にイミテーションを混ぜ合わせることを思いつたのです。アクセサリーは宝石の大きさを競うものではなく、服装と調和するものへと変わっていったのです。
シャネルの発表した上品なアクセサリーは上流階級の女たちを虜にします。
洗練された19世紀ロシアの文化
やがてシャネルの周囲には亡命ロシア貴族があふれてきます。シャネルは、困窮していた貴族をシャネル店の従業員として採用し、店内にはロシア貴族の陶酔あふれる品格に満たされていきます。
どういうわけか、ロシア人というのは私を夢中にさせる。
ココ・シャネル
現在『おそロシア』とGoogle検索すると驚くほどアブノーマルな映像が出てきます。しかし、19世紀末のロシアには、西洋諸国を圧倒するような洗練された文化が花開いていたのです。
文学ではトルストイの『戦争と平和』やドストエフスキーの『罪と罰』が生み出されました。
音楽では、チャイコフスキーが全世界を魅了しました。有名なピアノ協奏曲第一番を添付してみます。冒頭は誰もが聴いたことがある有名な旋律です。初演は何とアメリカです。
チャイコフスキーを継承したのが、ラフマニノフです。ラフマニノフはロシア革命でアメリカに亡命し、映画音楽の大きな影響を与えます。いかにもラフマニノフらしい音楽を添付してみます。
昔のハリウッド映画のようです。そもそもハリウッドの甘い音楽は、亡命したロシア人作曲家たちがもたらしたものなのです。
当時のロシア芸術にシャネルが虜になったのもうなずけます。
ディミトリ大公と恋仲は、一年あまりで終わりを迎えるものの、交流は生涯続きました。
英国一の大富豪との恋仲
サロンの花形
女友達ミジアはシャネルを芸術家サロンにも紹介しました。サロンには、画家ピカソ、劇作家コクトー、音楽家ストラヴィンスキーをはじめそうそうたるメンバーが集っていました。
実業家として成功したシャネルは、生活に困っている芸術家たちを支援しパトロンとなっていきます。いつしか、シャネルは芸術家たちのサロンを取り仕切るようになりました。
かつてパリ上流階級のサロンは、貴族階級以外の出入りを閉ざしていました。しかし、そんな上流階級の人々がシャネルのサロンへ招かれることを切望するようになったのです。
招かれるためには招かねばならりません。上流階級の人々がこぞってシャネルをサロンへ招待するようになります。
次第にシャネルはパリ社交界の花形となっていきます。
ウェストミンスター公爵
シャネルは、社交界でウェストミンスター公爵と出会います。40歳のときです。
ウエストミンスター公爵は、当時世界第三位の富豪でした。一位は自動車王ヘンリー・フォード。第二位は石油王ロックフェラーです。
公爵はあまりにも金持ちすぎて、自分が金持ちだという意識すらありません。
イギリス中に邸宅があり、公爵自身もその数を把握していないのです。邸宅の一つであるイートン・ホールの城館の敷地はパリ市よりも広く、ガレージにはロールスロイスが17台もあります。
そんなウエストミンスター公爵がシャネルに夢中になったのです。
なぜウェストミンスター公爵は、私といると楽しかったのだろう。
私が彼を罠にかけるようなことはしなかったからだ。
イギリスの女は、男を捕らえること、罠にかけることしか考えない。
名門の出か大金持ちともなれば、彼はもはや男ではなく獲物になってしまう。ココ・シャネル
ウェストミンスター公爵の贈り物攻撃がはじまりました。シャネルは、豪華な贈り物が届くたびに、それに見合う贈り物を直ちにかえします。シャネルの自律心が貸し借りを残すことを許さなかったのです。
世界一の金持ちの男とつきあうというのは、一番お金のかかることだ。
ココ・シャネル
そんなシャネルにウェストミンスター公爵はさらに熱を上げていきます。シャネルは公爵の熱意に答えます。
政治家ウィンストン・チャーチル
ウェストミンスター公爵との交際から、イギリスの社交界にも頻繁に出入りします。
そこで政治家ウィンストン・チャーチルとも出会いました。
あの有名なシャネルがやってきて、私は彼女に魅了されました。実に有能で魅力溢れる女性です。
ウィンストン・チャーチル
ブラックドレス
シャネルの創作は、ロシア的な装飾から、イギリス的な実用へと移っていきます。
まず、ブラックドレスが誕生しました。当時喪服の色でしかなかった『黒』をモードに導入したのです。女優ヘップバーンの着こなしを見てみましょう。
私の前は誰も黒を着る勇気がなかった。
ココ・シャネル
しかし、ブラックドレスの特徴はその色調だけではありません。一切の装飾を排したシンプルさにあります。ブラックドレスの出現で、社交界でもコルセットは一掃され、シャネルのつくったシンプルなドレスが定番となっていくのです。
スーツ
シャネルは、ウェストミンスター公爵のジャケットとズボンの着心地の良さに驚きます。素材はスコットランドで特注したツィードが使われていました。
働く女性のために、ツィード素材から女性用のスーツを作ることを考えます。当時、女性には男性のようなスーツがなかったのです。
シャネルは、ツィードスーツを発表します。それが、現在の女性スーツの原型となってくのです。シャネル本人の着こなしを見てみましょう。
公爵との別れ
公爵には、900年もつづいてきた家系の伝統を絶やさないためには跡継ぎが必要でした。結婚を意識したときシャネルは45歳。検査の結果、妊娠の可能性はほとんどないことが判明しました。
私はいつも、いつ去るべきかを知っていた。
ココ・シャネル
シャネルは身を引きます。
ウエストミンスター公爵は、同じ階級の貴族の女性と結婚しました。
しかし、公爵との交流はその後も続きました。女性のウェディングドレスをデザインしたのもシャネルでした。
『皆殺しの天使』
1920年代になり、女性はコルセットを捨て、仕事を持ち、結婚相手を自分で選ぶようになっていきます。そのような女性解放は、シャネルの衣服革命なしでは不可能でした。19世紀の服装を全て葬り去ったシャネルは『皆殺しの天使』と称されました。
しかし、富も名誉も得たシャネルは次第に保守化していきます。シャネル社の針子は4000人を超えていました。それでも、次々とくる発注には足りません。完璧主義のシャネルの要求は厳しく、針子の仕事はしばしば徹夜となります。
独裁者の出現
大恐慌
1920年代の繁栄は突然終わりを告げます。ニューヨーク株式市場が大暴落し、大恐慌が始まったのです。
未曾有の経済崩壊から、歴史上例を見ない二人の残酷な独裁者が歴史の表舞台に立つことになります。
ロシアの独裁者
まず、ロシアです。
一次大戦でロシア帝国は革命で崩壊し、共産主義テロリストによりソビエト連邦が成立しました。
ソビエト政府は、貴族や富裕層を次々と処刑するとともに、政権内で激しい粛正が繰り返しました。そして、スターリンが権力を確立したのです。
スターリンは一般市民にも粛正の矛先を向け、密告と秘密警察が支配する収容所国家と変貌させていきます。
ストライキ
独裁体制を確実にしたスターリンは、海外への諜報活動を活発にします。コミンテルンから全世界の労働組合にストライキを煽っていき、西欧諸国の経済力を弱め、国内の分裂を図ったのです
フランスでも、ストライキの嵐が吹き荒れ、シャネル社にも波及します。針子が店を占拠し、プラカードをドアに張り出てストに入ったのです。シャネルは店に向かうものの追い返されることになります。
もはやシャネルには針子の要求を飲むしかありません。その後、シャネルは共産主義へ敵意を抱いていきます。
ドイツの独裁者
さらにドイツでも独裁者が誕生しました。
一次大戦によりドイツ帝国とオーストリア帝国が崩壊しました。弱体化したドイツとオーストリアに、ニューヨーク株大暴落による恐慌が襲いかかり、壊滅的な不況に陥ります。
絶望に沈んでいたドイツ人の心を捉えたのは、共産主義を敵視し、ユダヤ人への憎悪を煽るヒトラーでした。ヒトラーは勢力を拡大し33年には首相となります。
首相となったヒトラーは瞬く間に独裁権を確立し、失業者を軍需産業に吸収することで国内情勢を安定化させていきます。
第二次世界大戦
1938年になり、ヒトラーはいよいよ対外的な野心を露わにします。オーストリアを併合し、チェコスロバキアは保護国としました。次の獲物はポーランドです。
1939年8月24日、不倶戴天の敵同士であったヒトラーとスターリンが手を組み、独ソ不可侵条約を発表します。二人の独裁者の囲まれたポーランドの命運は風前の灯火となります。
1939年9月1日夜明け、ヒトラーのドイツ軍はポーランドになだれ込みました。開戦とともに、ポーランド空軍の半分は飛行場で叩きつぶされ、翌日の2日にはポーランド空軍は事実上消滅しました。
第二次世界大戦が始まったのです。
ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスはドイツに宣戦布告をします。
空襲に備えパリの夜から灯が消えました。
私にはひとつの時代が終わるという感慨があった。服を作るようなときは二度と来ないと思った。
ココ・シャネル
シャネルは、香水とアクセサリー部門を除いて店を締め4000人の従業員を突然解雇しました。ストライキの復讐と人々は噂しました。
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