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【フォードとデュポンの大麻産業をめぐる興亡】大麻規制の背景 その2

投稿日:2018/11/11 更新日:

前回、アメリカの大麻規制の背景として、プロテスタントの一派であるピューリタンの発想とともに、禁酒法による影響を記載しました。

しかし、大麻規制には当時のアメリカ産業界の力学も大きく関与してたのです。大麻産業を推進する自動車王ヘンリー・フォードと、石油化学産業に活路を見いだすデュポン財閥の対決です。

さらに、ルーズベルト政権の外交政策も関わっていました。

今回は、その背景について記載していきます。

アメリカ黎明期の大麻産業

建国時のアメリカにとって基幹産業『大麻栽培』

建国当時のアメリカでは、大麻は重要な資源として使われていました。

そもそも、大麻繊維は、土地と人手さえあれば生産することができます。イギリスの植民地であったアメリカにとって、大麻栽培は重要な産業だったのです。

有名な独立宣言の草案も大麻紙によって書かれていました。

覇権国家イギリスの主力産業『繊維製造』

独立後もアメリカは大麻草を育て、その繊維をイギリスに輸出していました。イギリスに送られた大麻繊維は工場で衣類に製造され全世界に販売されていました。

19世紀は、イギリスの時代であり、その基幹産業は繊維産業でした。イギリスは羊毛、大麻、木綿を輸入し、工場で生産した衣類を世界中に輸出することにより莫大な利益を上げていたのです。その国力の源泉は、第一次産業革命でした。そこでは蒸気機関が動力の中心とあり、その燃料は石炭だったのです。

フォードとデュポンの対決

アメリカの石油化学産業

19世紀中旬には、農業国であったアメリカにも工業化の波が押し寄せます。そして、20世紀に入るとアメリカの産業は新たな段階に入っていきます。

蒸気機関は、電気を中心とした動力に置き換わり。燃料は石炭から石油に変わっていきます。そうして、石油化学工業も急激に発達していくのです。つまり、第二次産業革命です。

新興国アメリカが国際経済のイニシアチブを握るには、19世紀の基幹産業である繊維産業を支配することが必要でした。原料に囚われない新たな繊維を開発し、独占することで、イギリスから経済的な覇権国家の地位を奪うことを考えていたのです。その新しい繊維とは、石油を原料とする化学繊維に他なりません。

デュポン財閥

その石油化学工業の中心を担うこととなったのが、アメリカの巨大財閥デュポンだったのです。

デュポン財閥は、18世紀末のフランス革命の混乱によりアメリカに移住したフランス人デュポンを源流とします。デュポンは火薬企業を設立し、死の商人として南北戦争で巨万の利益を蓄え、財閥を形成してきます。

しかし、財閥となったデュポンは、武器商人からの脱却をはかっていきます。そこで活路を見いだしたのが石油化学産業だったのです。

大麻産業の発達

しかし、大麻産業がそこ立ちはだかることになります。

大麻は、衣服やロープのような繊維利用だけでなく、その純度の高いセルロースからセロファンやセルロイド、プラスチックはもとより建築素材に至る多くの工業製品の原料となることが明らかとなっていきます。

その大麻草に注目した起業家が、ほかならぬ自動車王ヘンリーフォードだったのです。

自動車王 ヘンリー・フォード

ヘンリー・フォードの歩みをみてみましょう。

機械工として4輪自動車を完成させたヘンリー・フォードは、1903年に自動車企業フォードカンパニーを設立します。

フォードは、高値の花であった自動車を大量生産することで、価格を下げ、誰でも購入できるようにすることで自動車産業を発展させていきます。

低価格を実現するためには、色調も性能もすべてが同じ自動車を大量生産することが必要と考えました。そうして、1908年に、T型フォードの開発に成功します。さらにベルトコンベアーによる組み立てラインを導入し驚異的な低価格を実現します。

T型フォードの普及により1920年のアメリカでは、5人に1人は自動車を所有するまでになったのです。日本がその水準に達するのは、1970年代末のことです。

当時T型フォードは、自動車シェアの70%を占め、独占的な体制を敷いていました。

大麻に着目したヘンリー・フォード

フォードはさらに大麻草を材料に組み込んだ自動車のボディの開発に着手します。大麻を含んだボディは、重量は鋼鉄の6割にすぎないにもかかわらず、強度は10倍という優れた性能だったのです。

大麻は、綿花やパルプ押されながらも、紙、繊維、食品、医薬品として利用されていました。しかし、研究が進むことで、建築材や、プラスチック、オイルをはじめ石油化学製品のほぼすべてが大麻から製造できることが明らかになったのです。

まさに大麻は、石油化学工業の発達にとって大きな障害だったのです。石油化学産業に活路を求めるデュポン財閥にとっては、ヘンリーフォードの大麻開発はまさに脅威という他ありませんでした。

デュポンの自動車産業参入

デュポン財閥は、果敢にもヘンリー・フォードに挑戦します。自動車産業への参入です。それは当初あまりにも無謀な挑戦と思われていました。しかし、短期間で経営史上稀にみる大きな成功を収めることになるのです。

T型フォードが絶対的地位を誇っていた1920年。その年デュポン財閥は、破綻寸前だった自動車会社を買収します。ゼネラルモーターズ(GM)です。

GMは、フォードとの競争に敗れ経営困難に陥った小さな自動車メーカーが合併したにすぎませんでした。しかも、合併の目的は単に資金繰りのためであり、合併後も旧オーナーは従来の経営そのまま踏襲していました。そのために、企業として無秩序を極め、統一されたマネジメントは行われていなかったのです。当然、利益出るはずもなく、圧倒的なフォードの前に今にも押しつぶさようとしていたのでした。

スローンのGM再建

GMを買収したデュポン社は、経営者としてアルフレッド・スローンを派遣します。スローンこそ、破綻寸前のGMを世界最大の自動車会社へと変貌された伝説的な経営者となる人物です。

当時T型フォードは、市場を独占していました。しかし、消費者は、その野暮ったいスタイルに飽きてきつつあったのです。そして、T型フォードのような大衆車以外のものを求めはじめていたのでした。

自動車市場の変化

GMの経営を託されたスローンは、自動車業界を単一つの市場とは見ないで、所得階層と購入者の嗜好とによって分断された複数の市場と考えました。

高級車のキャディラック部門は、ライバルをT型フォードではなく、ダイヤモンドやミンクのコートと考えたのです。顧客が購入しているのは、輸送手段ではなく富のシンボルということです。

そのように高級車のキャディラックをはじめ、大衆車のシボレー、スポーツカーのポンティアックと消費者の嗜好にあった6種のブランドをそろえていきます。さらに、それぞれのブランドについても顧客層を明確にして、競合しないようにしたのです。

その上、GMは定期的にモデル・チェンジを行うことで、買替えを促進する戦略をとっていきます。

時代に取り残されるヘンリー・フォード

顧客は自動車を低価格ではなく、さまざまな色やデザイン華やかさに惹かれて選ぶ時代になっていたのです。もはや、フォードは時代についていけなくなったのでした。それでもヘンリー・フォードはT型のみにこだわり続けていました。

自動車には、自然科学の法則のような不変の真理ともいうべき理想型がある。その永遠の理想型こそがT型フォードである。ヘンリーフォードはそう考えたのです。

凋落するフォード

ヘンリー・フォードに、『T型の売上は下降しており、大幅なモデルチェンジをしなければまったく売れなくなる』と進言する部下もいました。しかし、フォードは『モデルTにはまったく問題はない、販売部門が無能なのがいけないのだ』と突き放します。

また、新車登録台数の統計資料を示されると、『そんな数字はいんちきだ、おまえはGMのまわし者か』と怒りをあらわにしたのです。

そうして、反対意見を持つ部下がいないかを調査するために、人事部を秘密警察組織に変貌させ、社内では人事部による諜報部員が幅をきかすようになったのです。

有能な人材は次々とフォードを去っていき、イエスマンと諜報部員のみが残ることとなったのでした。

やがてT型フォードはGMのシボレー抜き去られることになります。消費者は先を争うようにT型フォードから離れはじめたのです。

ヘンリー・フォードもついにはT型フォードが役割を終えたという事実を認めざるを得なくなったのでした。こうしてフォード・モーター・カンパニーの業界支配は崩壊に向かっていったのです。

もはやフォードに大麻草を使った新素材を開発する余力は残っていませんでした。

メディアによる大麻追放キャンペーン

おりしも、禁酒法廃案の動きが活発化していきました。連邦麻薬捜査局は禁酒法廃案後をにらんで、大麻規制へと舵取りを変えていきます。

大麻産業を敵視するデュポン財閥はその機会を逃しませんでした。石油を支配するロックフェラー財閥もデュポン財閥を後押しします。

デュポン財閥は、当時のメディアである新聞に莫大な広告費を投入し、大麻のスキャンダラスな記事を掲載していきます。

さらに映画産業にも影響を及ぼしていきます。映画では、マリファナに溺れた若者が、凶悪犯罪に手を染めていシーンを大量に流すのです。

次第に世論が形成され、もはや『マリファナは安全』と発言することすらできなくなったのです。

『大麻課税法』可決

ついに連邦議会でも大麻規制が議題となっていきます。世論を背景に大麻課税法は議会で十分な審議をされないまま可決されていきました。大麻課税法とは、手続きの煩雑さと高い課税により事実上大麻産業を消滅させてしまうことを狙った法律です。

ルーズベルト大統領による対外政策の変化

『大麻課税法』成立

大麻課税法は、大統領フランクリン・ルーズベルトの署名をへて、1937年に成立しました。

ルーズベルト大統領は、『石油や石炭からできた合成プラスチックが、過去に天然物から作られていた多くの製品に取って代わって行くだろう』と演説します。天然物から、人工物への移行で経済発展を促すことを国民に説明したのです。

日本の生糸をターゲットとしたルーズベルト政権

しかし、その背後には、当時の国際情勢がありました。

共和党の前ブーバー大統領は、ソビエト連邦を警戒し国交を開きませんでした。それはスターリンの粛正による恐怖政治を目の当たりにし共産主義を敵視したからです。そのためにソビエト連邦を承認せず、共産主義の脅威と対抗するために親日政策をとっていました。

しかし、民主党のフランクリン・ルーズベルトが大統領となり、ソビエト連邦を承認し国交を樹立します。アメリカはソビエト寄りの外交政策に大きく転換したのです。

逆に日本との対決姿勢を鮮明にします。

当時アメリカは日本から大量の生糸を輸入していました。戦前では生糸産業が日本の基幹産業だったのです。

逆に、日本は原油をアメリカからの輸入に依存していました。

当時最高の繊維といわれていた日本の生糸は、女性のストッキングに不可欠の材料だったのです。

女性が社会に進出し、参政権も認められるようになったアメリカにとって女性票は政権の行方を左右するほと大きくなっていました。日本からの輸入品である生糸に高い関税をかけるなら、ストッキングの価格が高騰し、女性からの反発から政権基盤が危うくなります。

ルーズベルト政権にとって、石油化学産業を発展させることで、日本の生糸を超える品質の合成繊維を開発することがなんとしても必要でした。そのために、石油化学産業の障害となるものを取り除く必要があったのです。その最大の障害が大麻産業だったのです。

ナイロンの開発

1935年にデュポンの研究員カローザスが画期的な合成繊維の開発に成功します。『ナイロン』です。

1938年10月27日にデュポンは新製品『ナイロン』を発表します。キャッチフレーズは、『クモの糸よりも細く鋼鉄よりも強い繊維』でした。

1940年5月15日にデュポン社はナイロン製のストッキングを発売され、瞬く間に社会進出した女性の間で普及していきます。

もはやルーズベルト政権は、日本の生糸に依存する必要はなくなったのです。

同年8月には日本への石油輸出を制限していきます。

1941年7月には日本の在米資産凍結、8月には石油の対日全面禁輸へとつながり、日米開戦の導火線となっていくのです。

次回は、日本での大麻規制の背景を記載していく予定です。

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