ココ・シャネル

【デザイナーとしての躍進】最高級ブランドを創造したココ・シャネル その2

投稿日:2019/3/23 更新日:

前回は、ココ・シャネルの不遇の少女時代についての記事でした。

孤児院を卒業したシャネルは、針子をしながら歌手を目指すもの夢破れ、ヴィジーを後にします。

目次

青年バルザン

愛人への誘い

落胆するシャネルに助け船が現れます。ムーランの夜会で、シャネルの取り巻きだったエチエンヌ・バルサンという青年です。

バルザンは、貴族出身ではないものの裕福なブルジョワ階級で、莫大な遺産を相続したばかりでした。バリ郊外ロワイヤリュには広大な敷地の贅沢な邸宅を構えています。

バルザンはシャネルを邸宅につれていきます。
「なんて素敵な暮らしなの…」
シャネルはため息をつきました。

バルザンは言いました。
「僕は一年中こういう暮らしですよ。あなたもこんな暮らしをしてみませんか?」

愛人への誘いです。孤児院出身のシャネルがブルジョワ階級と結婚できるはずもありません。藁をもすがるシャネルは、バルサンの愛人として暮らしはじめました。

怠慢な生活

シャネルは初めて贅沢な生活がどういうものかを知ることなります。
厳しい戒律のない生活。
食べるために働かなくてもよい生活。
昼まで寝ていても何も言われない生活。 

後に、バルザンが『今まで出会った女性の中でもっとも怠慢だった』と述べるほど、シャネルは昼までベッドに潜りこんでいる毎日でした。

しかし、それは単なる怠慢ではなかったのかもしれません。休息の時期が必要だったのでしょう。

最近の脳科学で、ボーとしているときに脳はフル回転していることが明らかになってきました。ボーとしている間に、脳はいままでの膨大な情報を整理し、これから受け取る情報の処理能力を高めているのです。

システムのサーバーメンテナンスと同様です。

シャネルは、過去の感情をリセットし、新しい情報への感受性が研ぎ澄ますことになります。そして、ついに自分の翼を知る機会に巡り合うのです。

競馬場の女性たち

シャネルは、バルサンに連れられて競馬所に赴きました。

シャネルが見た上流階級の女性たちは、コルセットでぎゅうぎゅうに身体をしぼりあげ、ずるずるとドレスの裾を引きずりながら歩いていたのです。さらに、頭には大きな帽子には、羽飾り、果物が飾り付けられているのです。

なにより私が嫌だったのは、その帽子は頭にちゃんと入らないということだった。

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男性のための観賞植物のような主体性のない女性たち。『あんな女たちと一緒にされたくない。』

大胆なシャネルの服装

シャネルは反抗心を服装で表現します。シンプルな帽子をつくり、男性用の服装を仕立てなおして競馬場に行ったのです。

シャネルの風変わりな服装は目立ちました。しかし、大変な評判を呼ぶことになったのです。特に、小さな帽子が人気を集めます。シンブルで大胆で、しかし、気品に溢れている帽子。シャネルは、女性たちから次々と帽子の注文を受けるのです。

シャネルの帽子店

シャネルは自分の才能に気付き始めます。『帽子店を開きたいの』、バルサンに提案します。

バルサンは、暇つぶしのために言い出したのだと思い、パリにあるアパートの一室を提供しました。朝寝坊のシャネルが実業家として自立して生きることを考えているとは思いもしなかったのです。

1908年、シャネル25歳。 帽子店を開くことになりました。ついに翼を手に入れたのです。 シャネルの帽子は、上流階級の女性が次々と顧客となり、評判が評判を呼んでいきます。

シャネルが生涯唯一愛した男性カペル

1909年、26歳になったシャネルはひとりのイギリス人と出逢いました。バルサンの友人であるアーザー・カペル。ココ・シャネルが人生で唯一人愛した男性です。

当時の多くの裕福な男性は、親から遺産を引き継ぎ浪費するばかりでした。しかし、カペルは自力で石炭の運輸業で財産を作り上げていたのです。

カペルは、ほかの女性と違ったシャネル自立した姿勢に魅了されます。さらに、シャネルの才能も高く買っていました。

彼は私の人生にとって大チャンスだった。私の意欲にけっして水をさしたりしない人と出逢ったのだ。

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カンボン通への帽子店移転

1910年、カペルの出資により、カンボン通り二一番地に帽子店を移しました。近くにはホテル・リッツという最高の立地です。シャネル27歳のときです。

シャネルは、バルサンの屋敷を飛び出し、カペルと同居しはじめます。

2号店

1913年には、ノルマンディー地方の避暑地ドーヴィルに2件目の店を出します。その資金を出したのもカペルでした。そこでは、帽子だけでなく、シャツやスカートのようなカジュアルな衣服も売り出します。

シャネルは、帽子と同じように自分が着たい服をデザインして店にならべました。体を締め付けることなく動きやすい服でした。

翌年1914年に第一次大戦後が勃発します。ドイツ軍がフランス領内に侵入すると、避暑地ドーヴィルは戦火から逃れてきた裕福な女性たちが押し寄せます。シャネルの店も客で溢れかえりました。

第一次大戦による女性の社会進出

第一次大戦は、社会構造も大きく変えていきます。

男性は戦地に赴き労働力が枯渇しました。そのため、女性の労働力が必要とされることになったのです。19世紀のコルセットで締め付けた衣服では働けるはずもありません。

また、第一次大戦では、都市爆撃も本格的になり、多数の非戦闘員が犠牲となりました。従来の動きにくいコルセットでは女性は逃げることもできません。

19世紀の女性の衣服が過去の遺物となる下地が整ったのです。

ひとつのモードは終わりを告げ、次のモードが生まれようとしていた、そのポイントに私はいた。チャンスが舞い降りてきて、それをつかんだ。新しい世紀の子である私は、新しい世紀を、服装で表現しようとしたのだ。

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3号店

1916年には、スペイン国境近くの保養地ピアリッツに3番目に店を開きました。そこでは、本格的な衣服も始めました。

パンツスタイル

シャネルはパンツスタイルを女性服にも導入します。

もともと、パンツスタイルは男性服に限られていました。しかし、シャネルのデザインしたものは、大胆でありながら気品の漂うものだったのです。パンツスタイルの人気は沸騰します。

シャネル本人のパンツスタイルの写真を添付してみます。

その後、大女優マレーネ・デートリッヒは映画『モロッコ』で見事なパンツスタイルを披露しました。

女性のパンツスタイルは完全に定着することになります。

ジャージードレス

シャネルは、男性の下着に使われいたジャージー素材のドレスを発表します。まさに、革命児のココ・シャネルにしかできない発想です。

ジャージーを使うことで、私はまず締め付けられた肉体を解放した。

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伸縮性のあるジャージー素材はきわめて動きやすく、瞬く間に人気を集めます。ジャージードレスは、その後に現在のワンピースのもととなっていくのです。

シャネル本人がジャージードレスを着ている写真を見てみましょう。

ジャージードレスは、大西洋を越えたアメリカでも爆発的な人気となります。アメリカの『ハーパース・バザー』誌には、『シャネルを一着ももていない女性は、取り返しがつかないほど時代おくれ』とシャネル特集が組んでいきます。

ほとんどのバイヤーの口から『シャネル』の名前がのぼり、上流階級の女性たちや女優たちがシャネルに店に殺到することになります。

カペルの心に現れた変化

シャネルは時代の寵児となっていきます。店も300人を超える針子を雇うまでに拡大し、カペルへの借金も完済することになりました。

かつて、カペルが尋ねたことがあった。『僕をほんとうに愛している?』
シャネルは答えた。『それは私が独立できたときに答える。あなたの援助が必要でなくなったとき、私があなたを愛しているかどうかわかると思うから。』

男を獲物として見る女が多いのには驚かされる。
私は男を罠にかけるようなことはしない。

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シャネルがカペルに全額返済したとき、カペルは言いました。『おもちゃを与えたつもりだったのに、自由を与えてしまったのだね。』

カペルがシャネルと初めて出会った時、まだシャネルは手元で庇護するような弱い存在でした。

しかし、今やシャネルは世界的なデザイナーとして賞賛を浴び、フランスで初めての本格的な女性経営者として多くの従業員を指揮しているのです。もはや、カペルの庇護下にある存在ではありません。

カペルに心に変化が起こっていました。

キャリア女性を敬遠する男性

現在の日本ですら男性は、高いキャリアの女性を敬遠することがあります。日本でもっとも就職が困難な三菱商事のエリート商社マンの男性と母親の会話を見てみましょう。

『あなた、いいお見合い話があるのよ。素敵なお嬢さんよ。』
『今、忙しいんだよ。どうせ俺の収入が目的なんだろ。』
『そんなことないわよ。』
『じゃあ、何か仕事してるの?』
『してるわよ。女医さんよ。』
『…』

強い男でなければ私と一緒に暮らすのはとても難しい。
そしてその人が私より強ければ、私がその人と暮らすことは不可能なのだ。

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これはキャリア女性の共通する悩みかもしれません。

戦地の赴くカペル

カペルは、イギリス軍の大尉に帰属していました。戦乱の長期化とともに、招集が届き、戦地に赴くことになります。

ショートカット

1917年、34歳。 シャネルは髪をばっさりと切ります。

切った理由を聞かれるとシャ ネルはそっけなく答えます。
『うるさいからよ』

時代の寵児となったシャネルが『お手本』となり、ショートカットが大流行します。

私は自分の髪を切っただけ。そうしたらみんなが、真似をして髪を切った。それだけのこと。

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貴族の娘と結婚するカペル

戦地からカペルが戻ってきました。野戦病院で知り合った貴族の娘と『結婚するつもりだ』とシャネルに告げるのです。生まれたときから人生のカードをぜんぶ持っている女性。

カペルには裕福な父がいるとはいえ、私生児でした。フランスでは、出生の曖昧さは最大の欠陥だったのです。これを克服するために由緒正しき家柄の娘と結婚する必要がありました。シャネルはふさわしくなかったのです。シャネルは身分のことを言われるなら黙るほかありません。

一人になったシャネルの両眼からは、止まることなく涙が溢れ出しました。

色あせる貴族の称号

やがて戦争が終わり、カペルは正式に結婚します。

しかし、カペルは相手が貴族の娘という家柄しかない女性であることに気がつくのです。カードを持っていても、自らカードを使うすべをまったく知らない女性。

第一次大戦後、貴族の称号は急激に色あせていきます。

大戦によりヨーロッパに君臨した帝国が崩壊しました。ハプスブルク家のオーストリア帝国、ロマノフ家のロシア帝国、ホーエンツォレルン家のドイツ帝国、そして、オスマン家のトルコ帝国。かつて世界の頂点になった家系です。

帝国の崩壊とともに、多くの貴族が零落し、新しい勢力が台頭していくことになるのです。それは、カペルやシャネルのように自ら道を切り開く企業家に他なりません。

企業家は孤独との戦いです。企業家には、すべてを話せる戦友が必要です。しかし、温室育ちの貴族の娘に相手が務まるはずもありません。近くのゴシップにしか興味をもたない閉じられた世界の女性、それは、鳥カゴにいる血統書付きの小鳥とかわりないのです。

離婚を決意するカペル

カペルは、今更ながら失ったものの大きさを理解することになります。

何のカードも持ち合わすことなく生まれながらも、みずからカードを創り出すシャネル。世界的なデザイナーというカード、フランスで初めての実業家というカード。庇護する相手ではなく、戦友としてのシャネルは、まばゆいほどの輝きを放っているのです。

カペルは妻と別居がちになり、パリ郊外のシャネルの邸宅に訪れる関係が続きます。

シャネルにとって、もはや昔のようなときめきはありません。しかしそれでも、ビジネスを教えてくれたのはカペルです。カペルなくして成功はありえなかったのです。

ついに、カペルは妻と離婚し、シャネルとやり直す決心をします。そうして、クリスマスに離婚の話しをつけるために、妻の居るカンヌに車を飛ばします。年明けにはシャネルの元に来るはずでした。

男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ。

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シャネルは、カペルからの贈り物を待ち続けました。

カペルの死

シャネルのもとに届いたのはカペル死去の知らせでした。カンヌに行く途中で自動車事故を起こして、亡くなったというのです。 

真夜中に知らせを聞いたシャネルは、取り乱して階段を降りていきます。そして、カンヌに向けて車をノンストップで走らせました。しかし、着いたときには、入棺は終わっていました。カペルの顔を見ることもできなかったのです。

シャネルはひとりで事故の現場に行きました。カペルの車は半焼けになった道路端に放置されていました。シャネルは焼け焦げた車体に手を置くと、そのまま泣き崩れました。そのまま、何時間も泣きつづけたのです。

ひどいショックだった。カペルを失って、私は何もかも失った。

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自宅に戻ったシャネルは、壁や天井、カーテンとすべてを黒一色にして、引きこもってしまうのです。

つづく

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