今回、タバコ王デュークの記事(その1とその2)の後にフィリップモリス沿革を書く予定でした。しかし土曜日ギリギリまで原稿仕上げようとするも結局できあがりが不十分で頓挫することになりました。
そのために土曜日の原稿入稿は中止し、次の原稿作ることにしました。
ようやく次の原稿がおおかた完成し、その原稿の最後のところに今回の入稿が遅れたいきさつを簡単に5行程記載するつもりでした。
しかし、いざ記載をしてみると5行ほどではなく、1つのエッセイほどの長さのものが出来上がりました。そのために、今回の原稿は次回入稿することにして、今回はフィリップモリスの原稿が頓挫したいきさつ、そしてデュークの物語を記載した感想をエッセイ風に記載していきたいと思います。
目次
フィリップモリスの原稿が頓挫したこと
タバコ企業の物語を書こうとしたいきさつ
まず今回のタバコ企業の物語を書こうと考えたいきさつは、シーゲル博士のバリュー投資の研究 でフィリップモリスが19.75%ものリターンを生み出したことがきっかけです。それは1900年の時点でまだロンドンの片隅にある個人商店でしかなかったフィリップモリスが、世界最大のタバコ多国籍企業となる過程だからこそ、そこまでのハイリターンが生まれたのです。現在、そのリターンは不可能です。そのことを伝えたかったのです。
さらに、調べるうちにフィリップモリスはイギリスのロンドンを発祥とし、他方イギリスの巨大タバコ企業であるブリティッシュアメリカンタバコ社(BTI)は、アメリカ人がその発祥の発端でした。かつてアメリカでタバコ王と異名をとったデュークがその設立のきっかけであり、さらにデュークの作り上げたアメリカンタバコのほとんどのタバコ部門をBTIが接収されています。現在の本社と発祥とか見事に交差していることに、時代の流れを感じます。
面白みにかけるフィリップ・モリス社の沿革
まずはデュークの物語を作成しました。その後にフィリップモリスの沿革を記事にする予定でした。しかしデュークの波乱万丈の生涯に比べてフィリップモリスはあまりにも単調でした。
創業者のフィリップモリスは生年月日すらわかっていません。わかっていることは、タバコ職人としての簡単な実績と1857年に亡くなっているということぐらいです。個人商店をもつ名もなきタバコ職人として生涯を閉じているのです。
その後、その個人商店であるフィリップモリス社は、20世紀に入り王室御用達となり、その後アメリカ人実業家の手にわたり大企業として発展します。しかし継続して有能な経営者に恵まれたために、ゆっくりであるけれども確実に発展していきます。望ましいことであるものの、物語としては単調すぎて面白みに欠けます。
タバコ王デュークの記事を読んだ後、フィリップモリスの物語を普通にかけば、読者の期待を大きく裏切ることは明らかでした。フェリップモリスが生きた時代は、クリミア戦争の時代でした。そのためクリミア戦争に関係するダイナミックな人生をいきた人物と対比しながら物語を書こうとも考えました。しかしながら最後のところで、資料不足が起こり結局入稿が頓挫することになりました。一旦その原稿作成を諦めて後日別の原稿入稿しようと考えました。今から考えればこのようなエッセイを書いてもよかったのですが、その時は思いつきませんでした。
タバコ王デュークの物語を書いた感想
エピソードの多いセオドア・ルーズベルト大統領
タバコ王デュークの記事を書くにあたり困難であったことは、セオドア・ルーズベルト大統領の記載でした。フリップモリスと違い情報が多すぎることが理由です。20世紀のアメリカ大統領の中でアメリカ人にはもっとも人気のある大統領だけに、派天乱のエピソードにはこと欠きません。そのために取捨選択が大変困難であり、3回ほど原稿を書き直しています。結局、タバコ王デュークの物語その2を作成するには、かなりの労力を使いました。
セオドア・ルーズベルトが大統領になったいきさつ
採用を見送ったエピソードの中に大統領になったいきさつがあります。そのいきさつを改めて記載します。
1898年、海軍省に所属していたセオドア・ルーズベルトは、アメリカスペイン戦争が始まるとその職を辞して自ら義勇団として参戦します。そこでの戦功により国民的な人気が高まると共和党からニューヨーク知事に立候補し当選します。そこで労働者に寄りの政策を次々と行っていきます。共和党重鎮や財界は経済の中心のニューヨークにそのような知事がいることを懸念します。しかしながら排除すれば共和党への批判が集中します。そこで奇策を思いつきました。
セオドア・ルーズベルトを1900年の大統領選の副大統領候補に担ぎ出すのです。当時の大統領候補のマッキンリーはモルガン財閥から大量の資金提供受けており、独占資本を擁護する立場でした。そのために、セオドア・ルーズベルトの政策を完全に丸め込むことができます。さらに、セオドアルーズベルトを担ぎ出すことで労働者の味方と言う国民へのアピールもすることができ民主党に流れる票を押さえることもできます。当初、共和党の作戦は見事に成功しました。マッキンリーが大統領の再選を果たしたのです。
しかし、その後共和党と産業界のシナリオは狂い裏目に出ることになります。1901年9月共和党大統領マッキンリーが暗殺されたのです。その結果、副大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領に就任しました。共和党重鎮や財界が頭を抱える姿が目に浮かぶようです。
アメリカが中国市場に参入できなかったこと
日露戦争に関しても、その和平を仲介した大統領で、日本人にとってもなじみのある大統領ですという記述の予定でした、しかし、記載を変更しました。日露戦争の和平仲介を海外市場拡大ための1つという文脈でとらえ直したのです。
その後のことを記載しましょう。日露戦争で日本が手にした満州の利権は日本の財界のために、アメリカ資本の参入は見送られました。その結果、満州の利権を巡って日米対立が表面化しました。その対立が、その後の太平洋戦争につながっていきます。
歴史にもしもはないとはいえ、そのときにアメリカ資本の投資を認めていれば、満州は更に発展し、日米対立も無かったかもしれません。
その太平洋戦争で日本が敗戦後、その満州の利権をアメリカが握ったかといえば、その満州の支配は共産主義国であるソ連の支配下となります。そこから、毛沢東が中国を支配し、北朝鮮を金日成が支配していきます。結局アメリカはその目的の利権を手にすることができず、中国は、大日本帝国よりも更にやっかいな共産主義勢力の支配となるのです。
そのために朝鮮戦争で、マッカーサーは「戦う相手を間違えた」と嘆いたといわれています。日本にとっても、日露戦争後の満州開発にアメリカ資本の参入を認めていれば、今、中国共産党や北朝鮮は存在していないと予想されます。
最後に
いろいろと結論のないことを記載しましたが、それがエッセイなので、そのあたりは大目にみていただければと思います。今後、入稿が遅れるなら、予定していた原稿が頓挫したのかと暖かく見守っていただければ幸いです。
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