ココ・シャネル

【孤児院の少女時代】最高級ブランドを創造したココ・シャネル その1

投稿日:2019/3/16 更新日:

今回、ブランドについて考えてみたいと思います。

まずは、強力なブランドが創られる道筋をみてみましょう。今回は、ラグジュアリーブランドのシャネルです。

最高級ブランド シャネル

王室御用達のエルメスとルイヴィトン

エルメスやルイヴィトンは、欧州王室御用達という地位から発展しました。まさに、王侯貴族に採用されたときには成功が約束されていたのです。

最下層から築かれたブランド『シャネル』

しかし、最高級ブランドであるシャネルは違います。ココ・シャネルという傑出したデザイナーが一代で築き上げたのです。しかも、社会の最下層から過酷な運命と闘うことによって成し遂げられたものなのです。

翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんな障害も乗り越えなさい。

ココ・シャネル

ココ・シャネルはいったいどのようにして翼を手に入れ、最高級ブランドを築いたのでしょうか。ココシャネルの生涯から、その鍵を探していきましょう。

シャネルが隠した少女時代

晩年、孤独を深めるココ・シャネル

晩年、ココ・シャネルは、シャネル帝国の創業者として、そして、20世紀最高のデザイナーとして業界の頂点に君臨しました。そのような近寄りがたい存在であることにくわえ、一切の妥協を許さない独裁的な姿勢から、多くの人が離れていきました。孤独を深めていったシャネルはこのような言葉を残しています。

小心者ほどよくしゃべるもの。
ほかの人から嘲笑されるほどしゃべりまくる人って、
沈黙に耐えられないからしゃべるの。
私のことよ。

ココ・シャネル

少女時代を隠すココ・シャネル

機関銃のように話を続けるココ・シャネル。しかし、彼女の口から、幼少期の話題が出ることは無かったのです。しかも、隠すだけでは不十分のために、嘘をつき続けたのです。

父は、葡萄畑を保有する貿易商で、アメリカに行った。
二人の叔母に厳しく育てられた。
ココの愛称は父がつけてくれた。

私は、私の人生を作り上げた。なぜなら、私の人生が気に入らなかったからだ。

ココ・シャネル

ココ・シャネルの死後、隠し続けた少女時代が明らかになってきました。身分制の残滓が色濃くのこる欧州では貧困と苦難に満ちた少女時代は隠すしかなかったのです。

ココ・シャネルの少女時代

極貧の家庭

ココ・シャネルの本名ガブリエル・シャネルは、1883年8月19日フランスの田舎町ソーミュールで露天商の娘として生まれました。父親は、不安定で少ない収入しかなく、それも酒と女に浪費し、家庭を顧みることはなかったのです。そのため、母親は、病弱の身をおして、アイロン掛けや皿洗いの薄給の仕事をするしかありません。とても、幼いシャネルの世話をする余裕などなかったのです。苦労を重ねた母は、33歳で病死します。シャネル12歳のときです。

孤児院での青春時代

子供をもてあました父親はシャネルと長女ジュリアを孤児院に預けます。父親は『おまえを迎えに戻ってくるからね。また、一緒に暮らそう』と言って去っていきました。

孤児院に入ったシャネルは、面会がゆるされた日曜日には欠かすことなく父親を待ち続けます。しかし、父親に会うことは二度となかったのです。

人間の生まれの違いからくる幸、不幸。そのハンディキャップを 考えるとき、出だしが不幸だったことを私は全然恨んでいない。

ココ・シャネル

反抗するシャネル

孤児院は寒村オーバジーヌの修道院にあります。オーバジーヌは、現在でもフランスの国鉄で1日に2本しか電車が到着しない辺境の地です。

修道院には、孤児だけでなく、寄宿生徒も在籍し、授業は合同で行われていました。寄宿生と孤児との間には、絶えず争いがありました。そのとき、耐えなければいけなかっのはいつも肩身の狭い孤児たちだったのです。

しかし、シャネルは屈辱に、おとなしく耐えているばかりではありませんでした。

私は反抗児だった。そう、私はいつも、とても傲慢だった。頭を下げたりペコペコしたり卑下したり自分の考えを押しまげたり命令に従うのは、大嫌いだった。とにかく、人に頭を下げるのはまっぴらだった。

ココ・シャネル

屋根裏の寝室

有料の寄宿生徒には、共同寝室があり暖房器具も完備されていました。

一方、孤児たちの寝室は修道院の屋根裏でした。修道院は12世紀に建てられ廃墟になった僧院を手直ししたものです。屋根裏の暖房などあるはずもなく、冬には氷点下となり、凍てつく寒さが押し寄せます。

厳しい教育は私の性格を形作るのに役立った。傲慢さは、私の性格のすべての鍵ともなったかわりに独立心となり、または非社交性ともなった。それは同時に、私の力や成功の秘密にもなっていった。

ココ・シャネル

自由への渇望

春の足音が聞こえ、寒さが去ると、修道院の周囲には花が咲き誇ります。シャネルは、修道院の外に心を奪われました。しかし、薄暗い修道院の外に出られるのは、週に1回、川辺の説教師の話を聞くときだけだったのです。

それ以外の外出は許されず、小さな窓から外を眺めるしかありません。外の世界に出られないかわりに修道院にある書籍をむさぶるように読むことになります。そうして、『自由』を切望していくのです。

傲慢な人間の一番嬉しいことは、自由ということだ。ただ、自由 でいるにはお金がかかる。この牢獄の門を開くには、お金しかな いと私は考えていた。服を注文するカタログを眺めては、お金を湯水のように使う夢にひたっていた。

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『シンプル』

シャネルの心に深い傷跡を残した孤児の少女時代。しかし、その時代は後に天才デザイナーとして躍進する原風景ともなったのです。

典型的なフランス建築には過剰ともいえる装飾がちりばめられています。その典型がベルサイユ宮殿です。逆にシャネルの居た修道院は、ロマネスク様式の極めてシンプルな建築物です。

『シンプル』で、『着心地が良く』、『無駄が無い』。
私はこの三つのことを自然に、新しい服装に取り入れていた。

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後年、シャネルは天才デザイナーとして、『シンプル』さを追求し、19世紀の服装を過去の遺物として、葬り去っていきます。

『黒』と『白』

寄宿生は多彩な色のしゃれた服を着ていた一方、シャネルらの孤児に支給されたのは、『白』か『黒』のモノトーンの作業服でした。

パーティーで『黒』か『白』のドレスを着た女は誰よりも目を引く。

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後に、『黒』や『白』こそがシャネルの色となり、20世紀のライフスタイルに革命をもたらしていきます。

歌手の夢

針子の仕事

孤児院では裁縫も教育されました。それは、孤児院の運営の足しになるとともに、孤児が卒業した後の手に職にもなるからです。

18歳になり、シャネルは、孤児院を出ることになります。そうして、田舎町のムーランにある洋裁店で針子として働くことになります。

夜会の歌手

ムーランには、貴族の騎兵隊があり、シャネルの働く洋装店には多くの貴族の青年が訪れました。シャネルは貴族の青年に連れられて、夜会に通うことになります。夜会で、貴族たちは、歌やショーを楽しみながら、シャンパン交わし、社交を広げていました。

シャネルはそこで歌手として採用されることになりました。シャネルの持ち歌のひとつが『トロカデロでココを見たのは誰?』でした。観客は、舞台のシャネルに『ココ、ココ』と喝采をおくります。やがてシャネルの『ココ』と呼ばれることになります。『ココ・シャネル』という名前はこうして生まれのです。

都会でのオーディション

しかし、ムーランはしょせん田舎町。50キロ先には、保養地として名高いヴィシーがあります。夏になるとバカンスに来る富裕層でパリのような賑やかさになります。シャネルは、大歌手になる夢を描いて、ヴィシーに出ることにしました。22歳のときです。

しかし、現実は甘くありません。何度もオーディションを受けるものの、落選を続けます。

確かに、シャネルは、人を惹きつける独特の個性がありました。その不思議な雰囲気が多く人の心をつかんだのです。しかし、声は低く通りも良くありません。耳の肥えたヴィシーの聴衆を満足させるはずもなかったのです。

シャネルは、レッスンを続けながら、オーディションを受け続けます。しかし、レッスンも無料ではありません。

夏の盛りが過ぎる頃、資金は底をつきました。

鉱水の水汲みの仕事

それでもシャネルは諦めません。

生活費とレッスン代を工面するために、鉱水汲みのアルバイトを見つけました。鉱水を飲みにくる保養客のために、洞窟の奥に行って、湧きだしている鉱水をコップにくんでくる仕事です。あまりにも単調な作業のため、「私、いったい何しているのだろう」と憂鬱になっていきます。

相変わらずオーディションには、はねつけられてばかりです。

秋の気配が忍び寄り、道路に落ちる影が長くなってきました。保養に訪れていた貴族は、ヴィジーを去っていきます。劇場や夜会も閉まり、オーディションも開催されなくなりました。

シャネルは、夢破れ、資金も無くしヴィジーを去ることになります。

つづく

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