前回、1941年1月に私たちの先祖がS&P500に投資をする前提で話を進めました。
半年後の1941年7月に、日本軍はフランス領インドシナ半島を占領します。
対立していたアメリカは対日資産凍結を行いました。日本は米ドル決済が不可能となり国際貿易から閉め出されることになったのです。
資産凍結は個人資産にも及びました。先祖が投資したS&P500インデックスも資産凍結されるのです。
目次
日米戦争前
対米改善を望む昭和天皇
戦前、昭和天皇は立憲主義の原則に従い、極力政治決定への関与を控えていました。その制約のなかで、対米改善を図るように近衛文麿首相に伝えていたのです。
しかし、近衛首相から日米開戦について『御前会議』に諮ることになると聞き驚愕します。9月5日のことです。すぐさま、杉山陸軍総長を呼び詰問します。
昭和天皇『日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの期間にて片付ける確信があるか。』
杉山陸総『太平洋だけは三カ月で片付けるつもりであります。 』
昭和天皇『汝は日中戦争勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「戦争は一カ月で片付く」と申したように記憶している。しかし四ヵ年の長きにわたり、まだ片付かないではないか。 』
杉山陸総『中国は奥地が広く、予定どおり作戦がうまくゆかなかったのであります』
昭和天皇『中国の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信あって三ヶ月と申すのか。』
翌日9月6日の御前会議では、昭和天皇の意向が尊重され、日米外交交渉が優先されることになりました。
ソ連工作員に浸食されたルーズベルト政権
しかし、フランクリン・ルーズベルト政権には、多数のソ連の工作員が浸透していました。目的は、日米戦争により日本を壊滅され、権力の空白となった満州と朝鮮に共産主義勢力を誕生させることなのです。
近衛首相は、日米外交交渉の行き詰まりから、職務を投げ出し総辞職します。
ハルノート
10月18日に陸軍大臣であった東条英機が首相となります。東条首相なら陸軍を統制できると考えられたのです。
しかし、ソ連の工作員が浸透したアメリカは、東条英機ですら絶対に飲むことができない和平案を作成します。いわゆるハルノートです。
そこには、満州を含む中国からの全面撤退が記されていました。トランプ大統領が、習近平に、台湾、チベット、ウイグルの独立を要求させるような和平案です。
ハルノートを提出したコーデル・ハル国務長官は、スティムソン陸軍大臣に告げます。『これで日米交渉は終わる。後は軍人であるあなた方の出番だ。』
ドイツ勝利という前提の崩壊
東条英機も対米戦を決断に至り、12月1日御前会議で開戦が決定されます。昭和天皇にとっても、これ以上対米交渉を指示することは不可能でした。
当時、同盟国ドイツが破竹の勢いで進撃していました。ドイツに勢いがある間に、対米戦を早期開戦し、最大の痛手を与え、その上ですこしでも早く終結されるしかないとの判断だったのです。
しかし、12月6日、日本が前提にしていたドイツ勝利は消滅しつつあったのです。
日本は対米戦の意図は、駐日ドイツ大使のゾルゲにも伝えられていました。しかし、ゾルゲの本当の姿は、ソ連の諜報員だったのです。情報は即座にモスクワに伝えられていました。日本が対米戦を決意したことを知ったスターリンは対日防衛のためにシベリアに温存していたジューコフ将軍をモスクワ防衛に向けます。ジューコフ将軍の猛攻によりドイツ軍は75万人の犠牲者を出し、壊滅寸前となります。
真珠湾攻撃の2日前に、すでにドイツ勝利という前提は崩れていたのです。
日米戦争
真珠湾攻撃
1941年12月8日に、日本軍はハワイの真珠湾への攻撃を開始します。日本軍は快進撃を続け、半年で東南アジアから南太平洋に至るまで支配権を広げました。
しかし、日本軍の暗号はアメリカに解読され筒抜けだったのです。ミッドウェー作戦を傍受していた待ち伏せをしていたアメリカ軍の前に日本軍は大敗します。
その後、量産体制を整えたアメリアの物量に圧倒されていくのです。
ドイツ降伏
1943年に、ドイツ軍もスターリングラードでソ連のジューコフ将軍の猛攻の前に降伏します。精鋭軍を失ったドイツの敗北は誰の目にも明らかになりました。
1944年には、サイパン島が陥落し、日本本土への空襲が本格化します。東条英機内閣は総辞職しました。
1945年4月には、ソ連軍ジューコフ将軍のベルリン猛攻の前にヒトラーは自殺し、ナチスドイツは崩壊しました。
ソ連への和平仲介
ドイツ降伏を受けて、日本は、ソ連のスターリンに終戦の仲介を依頼します。2000万人を超える自国民を死に追いやった史上最悪の独裁者スターリン。そのような人物に何を期待したのでしょうか。
しかも、すでにヤルタ会談で、ソ連はアメリカと対日参戦の密約を交わしていたのです。
ソ連は、日本への要請に曖昧な返事をして時間を稼ぎ、参戦の準備を着々と整えていくのです。
原爆開発
7月16日、アメリカのニューメキシコ州で原爆実験が成功します。爆発は巨大な火の玉となり、キノコ雲は十キロ以上の高さになりました。
実験成功は、アメリカ中枢に潜入していたソ連の諜報員により即座にモスクワに送られます。スターリンは、原爆投下前に対日参戦できるよう準備を急ぎます。
水面下で各国首脳が激しくせめぎ合いをするなか、日本だけがソ連の回答を待つという無為の時間を過ごしていたのです。
ポツダム宣言受諾
8月6日に広島に激しい閃光とともに爆発が起こり、街は灰燼と化しました。
8月9日には、ソ連が日本に宣戦布告をし、満州になだれこみます。
緊急で御前会議が開かれ、ボツダム宣言受諾の可否について議論されることになりました。会議が紛糾するなかで長崎への原爆投下の報が入ります。会議は翌日12日未明までおよび、鈴木貫太郎首相は昭和天皇に決裁を委ねることなりました。そうして、昭和天皇によりポツダム宣言受諾が決定されたのです。
天皇制維持について、陸軍大臣が懸念を示したものの、昭和天皇は答えます。『心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある。』
しかし、確証があるはずありません。
当時、アメリカ政府内でも意見が紛糾していたのです。ソ連の参戦から終戦を急いだトルーマン大統領は、天皇制維持についての判断を占領後に持ち越します。
当時の昭和天皇の真意を映し出した短歌が残されています。
爆風に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも
昭和天皇
8月15日に昭和天皇による玉音放送が流れ、戦争は終結しました。
没収されるS&P500インデックスファンド
ポツダム宣言受諾を受け、凍結されていた日本の対外資産はすべて没収されることになりました。
個人の対外資産も例外ではありません。1941年に投資したS&P500もすべて連合国に没収されたのです。
連合軍による日本占領
最高司令官マッカーサー
トルーマン大統領は、占領政策をマッカーサー元帥に委ねます。『貴殿を、米英中ソ連合軍最高司令官(GHQ)に任命する。天皇の殊遇を含めた日本統治のすべての権限を一任する。』
日本の命運は、マッカーサーただ一人の掌中に握られることなったのです。
8月30日にマッカーサーは厚木に降り立ち、東京に進駐します。そうして、第一生命ビルにGHQ総司令部を設け、皇居を見下ろす6階の執務室で占領政策に着手しました。
9月になり、A級戦犯が次々と逮捕されていきました。
さらに、米国議会で、昭和天皇を戦犯として訴追する決議案が提出されます。
昭和天皇・マッカーサー会見
そのような中で9月27日、昭和天皇はマッカーサーに会うために通訳一人だけを連れて、アメリカ大使館公邸を訪ねます。
昭和天皇訪問の知らせを聞いたマッカーサーは第一大戦直後に占領軍に訪れた敗戦国ドイツの皇帝を思い出しました。ドイツ皇帝は『戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。従って自分の命だけは助けてほしい』と命乞いを申し出たのでした。
マッカーサーはパイプを口にくわえ、ソファーでくつろいでいました。同じような命乞いだろうと予想していたのです。
しかし、訪ねた昭和天皇は直立不動のままで、自身の進退について話しました。
『連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました。戦争に関する一切の責任は私にあります。私の命において全てが行われました限り日本にはただ一人の戦犯もおりません。いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。』
『しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えられないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜れることを願っています。』
そのときの心境をマッカーサーは記しています。
私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士であると思った。
マッカーサー回想禄
この時、マッカーサーはいかに日本占領政策を遂行するかを決断するに至ったのです。マッカーサーは答えます。
『かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことだ。
私は陛下に感謝申し上げたい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、すべて陛下のお力添えである。これからび占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうかよろしくお願いしたい。』
日本主権回復
サンフランシスコ講和条約
1951年9月にアメリカの日本占領は終了し、サンフランシスコ講和条約により日本は主権を回復します。
S&P500インデックス没収の確定
条約にて、『日本が戦争終結前に持っていた対外資産はすべて没収され、捕虜などの補償にあてる』ことが記されました。個人が保有していたS&P500インデックスファンド没収も改めて確認されたのです。
重光外相の渡米
4年後の1955年、昭和天皇は、安保条約改正のため渡米する重光外相にマッカーサーへの親書を託します。
『もし、マッカーサー元帥と会合の機会もあらば、「自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝し、健康を祈っている」と伝えてもらいたい。』
重光外相から、昭和天皇の親書を受け取ったマッカーサーは答えました。
『私は陛下にお出会いして依頼、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らない。』
結論
現在、アメリカへ投資をした個人資産が凍結されるリスクはほぼ無いといって差し支えありません。
しかし、香港の投資はどうでしょうか。中国の巨大IT企業テンセントには、香港市場に投資するしかありません。しかし、支配者は中国共産党です。対日関係悪化にて、資産凍結のリスクがないといえるでしょうか。
アメリカと中国との対立が深まりつつある現在、香港への投資のリスクについて、再考することが必要ではないでしょうか。
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