ココ・シャネル

【ココ・シャネル逮捕】最高級ブランドを創造したココ・シャネル その4

投稿日:2019/4/6 更新日:

前回は、第二次世界大戦が勃発したところまでを記事にしました。もう一度簡単に記載してみます。

1939年9月1日にヒトラーのドイツ軍がポーランドになだれ込みました。イギリスとフランスはポーランドとの同盟からドイツに宣戦布告をします。第二次世界大戦の始まりです。

戦争が始まり、シャネルは、香水とアクセサリー部門を残して店を閉鎖しました。

フランスの敗北

ポーランド崩壊

ドイツ軍は電撃戦を展開し、1週間でポーランド軍を壊滅に追い込みます。

開戦後17日目に、突然ソビエト軍がポーランドの東半分に侵攻しました。ポーランドは、2人の独裁者の餌食となり地上から消滅します。

フランス難攻不落の要塞マジノ線

フランスの西部戦線では、にらみ合いの状態が続きます。

フランスはドイツ国境に難攻不落の要塞マジノ線を構築していました。第一次世界大戦での塹壕戦で多大な被害を受けたことから、防衛費の大半を投入して巨大な防衛線を構築していたのです。

シャネルに元に訪れるチャーチル

イギリス海軍大臣であったチャーチルは何度もマジノ線を視察しました。その際に、何度かリッツのシャネルの元にも訪れています。

チャーチルですら、フランスが敗れるはずがないとマジノ線の神話に浸っていました。

フランス敗北

しかし、マジノ線の神話はヒトラーの前に粉々に打ち砕かれることになるのです。

1940年5月にドイツ軍はベルギー、オランダを飲み込み、フランス領内に侵攻を開始しました。ヒトラーがポーランドに侵入して9ヶ月目のことでした。

ドイツ軍は、無敵の要塞マジノ線を避け、アルデンヌの森から戦車部隊を侵入したのです。アルデンヌの森はうっそうと木が生い茂り、戦車の進入は不可能と思われていました。しかし、ドイツ戦車部隊は難なく森を通過します。

不意を突かれたフランス軍は総崩れとなり、一ヵ月半でドイツに降伏しました。

パリのエッフェル塔には鍵十字の旗が立つことになります。

敗北を認めないフランス人は、ドゴール将軍の呼びかけに応えて武器を取って立ち上がり、フランス全土でレジスタンスを展開しました。

しかし、多くのフランスは降伏を安堵の気持ちで受け入れます。少なくとも一次大戦のような大量の戦死者を避けることができたからです。

シャンル最後の恋仲

戦火を逃れ疎開していたシャネルもパリのホテル・リッツに戻ります。

そこでシャネルは、ディングラージというドイツ大使館員と恋仲となっていくのです。当時シャネルは56歳、相手のディングラージは13歳年下の43歳で、シャネル好みの美男子でした。

しかし、大使館員というのは表向きにすぎません。ナチスの諜報組織ゲシュタポの構成員だったのです。

シャネルのイギリス人脈

シャネルが暮らしているホテル・リッツは、ナチス高官の住居となり、フランス人は排除されました。

しかし、シャネルはホテル・リッツに暮らすことが許されました。ナチスの目的はシャネルのイギリス人脈です。

『シャネルの5番』の権利

シャネルも、ナチスの力を借りて香水の権利をユダヤ商人から取り戻すことを考えます。

シャネルは香水『5番』の世界展開のためユダヤ系商人ヴェルテメール兄弟と共同会社を設立していました。しかし、シャネルの利益配分は低く、後に『だまされた』と漏らすようになっていきます。

ユダヤ人を敵視するナチスドイツのフランス占領をシャネルは好機到来と考えたのです。

いつしか、シャネルはナチスの諜報活動員となっていきます。コードネームは『F7124』と『ウエストミンスター』。

困窮するフランス国民

ナチス占領で初めての冬が訪れ、物資の枯渇にフランス市民は、困窮を極めることになります。生活必需品は配給制となり、飢えに苦しむ市民がゴミをあさる光景が日常となっていきます。

繁栄を謳歌するホテルリッツの住人

しかし、ナチスの寵愛を受けたシャネルの眼中に、市民の困窮が映るはずもありません

ナチス高官やシャネルのようなホテル・リッツの住人はそのような喧噪とは別世界を謳歌します。連日、欧州各地から食材が運ばれ、一流シェフ料理が振る舞われていきます。夜にはヒトラー好みのワーグナー・オペラが開催され、シャンパンによる宴が催されていくのです。

無敵のドイツ軍は、そのまま欧州の覇者として君臨するかの見えました。

しかし、ヒトラーの栄華にも陰りが差し込むことになるのです。

イギリスとの戦い

ヒトラーはイギリスに講和を提案します。

フランス敗北でイギリスの内閣は総辞職に追い込まれていました。かわりに首相となったのは、シャネルと親交のあるチャーチルでした。チャーチルは、ヒトラーの講和を拒否し、徹底抗戦の意志を明確にします。

我々は最後まで戦う。我々はフランスで戦う、我々は海で戦う、空中で戦う。

我々はどんな犠牲を払おうとこの島を守る。

我々は決して降伏しない。

ウィンストン・チャーチル

ヒトラーはイギリス上陸作戦を企て、1940年8月からイギリス本土空爆を開始します。

ロンドンは毎日のように空襲を受け、イギリスの多くの町が瓦礫と化しました。しかし、イギリス空軍も開発されたばかりのレーザーを駆使し、応戦します。イギリス軍の抵抗により、ドイツ軍は1900機の戦闘機を失い、作戦の中止を余技なくされました。

独ソ戦

独ソ戦の勃発

イギリスとの戦争に行き詰まったヒトラーは、1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破りソビエト領土へ侵攻を開始します。不意を突かれたソビエトは、空軍の大半は地上で叩き潰され、陸軍は各地で包囲され壊滅状態となっていきます。

モスクワ防衛

12月2日、ついにドイツ軍はモスクワ郊外まで達しました。そこから、クレムリン宮殿の金色に輝く塔がそびえるのが望まれました。

しかし、そこから寒波が襲い、モスクワの気候は氷点下40度に達し寒さが襲ってきます。視界が遮断された雪とみぞれの中で、戦車のエンジンは凍り付き、潤滑油が黒いゼリー状となり飛行機は動かなくなったのです。さらに、ドイツ軍に凍死者が続出していきます。短期勝利を疑わなかったヒトラーは冬服すら準備していなかったのです。

12月6日、ソビエト軍の大規模な反撃がはじまります。日本に備えていたジューコフ将軍のシベリア軍がモスクワ防衛に投入されたのです。ジューコフ将軍の攻撃を受けたドイツ軍は、75万人という戦死者を出し後退を余儀なくされます。無敵ドイツという神話はうち砕かれたのです。

スターリングラードの戦い

1942年春に、体制を立て直したヒトラーは、新たな攻撃目標をスターリングラードに定めます。独裁者スターリンの名が冠された新生工業国ソビエトの象徴となる都市です。

1942年8月末、ドイツ軍精鋭軍は、スターリングラードに大規模な空爆を行い、1日で街の四分の三を瓦礫と化しました。

1ヶ月後には、ドイツ軍はスターリングラードに侵入しました。しかし、そこに待ち構えていたのは、建物一つ、部屋一つを奪い合う市街戦だったのです。至るとことに地雷が敷き詰められ、廃墟の影にはソビエト軍の狙撃兵が潜み、容赦なく火炎放射器が襲ってきます。

スターリングラードはもはや街ではない。

日中は、火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ河に飛び込み、必死に泳いで対岸にたどり着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い意志でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。

神よ、なぜわれらを見捨て給うたのか。

ドイツ軍人の手記より

12月となり、再びロシアの冬が到来します。

その瞬間こそ、神出鬼没のソ連軍ジューコフ将軍が待ちうけていた瞬間だったのです。猛吹雪が絶えまなく続き、視界がさえぎられるなか、ジューコフ将軍はスターリングラードを完全に包囲し、ドイツ軍の補給路を絶つことに成功します。補給線が切れ、弾薬も食料も尽き果てたドイツ兵には、餓死者や凍死者が続出していきます。

1943年2月のはじめ、ついにドイツ軍は降伏します。史上最強のドイツ精鋭軍はここに崩壊したのです。スターリングラードの敗北は、ヒトラーの野望の墓場となります。

イギリスによる空襲

西部戦線でも、イギリス空軍がドイツ産業の中心ルール工業地帯に大空襲をしかけてきました。ドイツ軍の主力が東部戦線に釘づけにされている間に、西部戦線の制空権はいつの間にか英米空軍の手に移っていったのです。

シャネルの諜報活動

『香水』奪回の失敗

シャネルが期待した香水『5番』奪還も失敗に終わります。

ヴェルテメール兄弟はヒトラーの欧州征服の野望をいち早く見抜き、アメリカに亡命していたのです。さらに、ユダヤ人への大規模な迫害も予想し、香水会社をフランス人資産家に委託していたのです。

対独協力者の公表

フランスの対独協力者のリストがメディアに公表されました。そこにシャネルの名も記されていました。

ドゴール将軍は、『フランス解放の暁には、裏切り者のは厳しい罰が下されるだろう』と言明します。

ナチス高官との面会

シャネルは、親交のあるチャーチルと交渉し英独講和を進めることを模索します。早期講和により、欧州が共産主義国ソビエトの手に落ちることを防ぐことを提案したのです。作戦は、『帽子作戦』と命名されました。

シャネルと恋仲のディングラージは、寝台列車を使いベルリンに行きます。ナチス幹部ヒムラーに面会するためです。

ハインリッヒ・ヒムラー。ヒトラーの側近中の側近であり、秘密警察ゲシュタポを組織し、絶滅収容所で600万人のユダヤ人を死に追いやった人物です。

反ユダヤ主義は害虫駆除と同じことだ。害虫を駆除することは何ら世界観の問題ではない。それは衛生上の問題である。

ハインリッヒ・ヒムラー

ペルリンに到着したシャネルは、いたるところで空襲で崩れた建物を眼にします。そこには、欧州全域を支配した帝都の面影は見る影も無くなっていたのです。

ベルリンでは、ヒムラーの腹心の部下シェーレンベルクがシャネルらを出迎えます。

『帽子作戦』

ヒムラーから『帽子作戦』の承認を得たシャネルは、中立国スペインのイギリス大使館に行きました。そこで、イギリス大使にチャーチルへの手紙をことづけます。シャネルはチャーチルからの返事を待ちつづけます。しかし、返事が来ないまま、やがてチャーチルが病気になったというニュースが流れました。シャネルは計画が失敗に終わったことを悟ります。

シャネルが、パリに帰ってきたときは1943年12月になっていました。

もはや、ドイツ全域が英米空軍の制空権に入り、あらゆる都市にじゅうたん爆撃が繰り返されるようになります。

フランス解放

パリ解放

1944年6月、英米連合軍はノルマンディー上陸作戦を敢行しました。世にいう『史上最大の作戦』です。

英米軍は、破竹の勢いでパリに進撃します。8月15日には、パリのレジスタンスが一斉に蜂起しました。

連合軍の攻撃に、ドイツ軍コルティッツ総督は、もはやパリ防衛は不可能と考えます。

総督は『パリのすべてを破壊せよ』とヒトラーからの命令を受けていました。しかし、総統命令を無視して連合軍に降伏します。受話器の向こうでは、『パリは燃えているか』というヒトラーの怒鳴り声が繰り返されました。

ヒトラーの『パリは燃えているか』は、NHK『映像の世紀』オープニングの曲名にもなっています。日本人作曲家の加古隆のこの曲は、放送と同時に大反響を呼びました。Youtubeを引用してみましょう。

シャネル逮捕

8月25日にドイツ軍は追い払われパリが解放されます。ドゴール将軍は歓喜する民衆にかこまれ、シャンゼリゼ通りを凱旋行進します。

それは、まさにフランス人が待ち望んだ瞬間だったのです。

しかし、シャネルのような対独協力者にとっては、悪夢の到来に他なりません。

多くのパリ市民は解放を乾杯で祝う一方、熱狂のあまり興奮した群衆の中には、復讐に取り憑かれていく者も出てきました。

ドイツ軍人と交際していたフランス女性は、髪を切られ丸坊主にされて、街中を引き回されました。

多くの対独協力者が、群衆の暴行から命を落としました。

そして、シャネルも、連合軍に身柄を拘束され、逮捕されるのです。

つづく

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