タバコ業界 投資雑談

【ナイチンゲール VS カール・マルクス】フィリップ・モリスの興隆と蹉跌 その5

投稿日:2019/10/26 更新日:

前回、フィリップ・モリスを引き継いだ弟レオポルド・モリスがオペラ歌手と色恋沙汰となり、事実上、倒産するところまで記載しました。

一方、フローレンス・ナイチンゲールについては、攻撃的な性格と感情の起伏の激しさから次々と身近な人々が去っていき、『戦友』であるハーバートも過労で死亡するところまで記載しました。

欧米最高の厚生労働専門家ナイチンゲール

精神医学からみる神の声

放心状態となったフローレンスに、突然に神の声が届きます。ナイチンゲールは、人生で4回神の声を聞いたといわれています。今回が4回目で最後の声でした。

このような現象を、精神医学では『幻聴』と呼んでいます。原因の一つに強い精神的緊張があります。

ナイチンゲールは、幼少期から完璧主義を貫き、さらに両親の反対を押し切り看護師の道を歩みました。その後もクリミア戦争での活躍や統計学者と超人的な業績を残しました。

その背後には、強い精神的緊張があったことは疑いありません。

神の声の内容

その後、フローレンスの攻撃的な性格は徐々に影を潜め、感情を露わにするともなくなっていきます。

いったい、どのような内容だったのでしょうか。ナイチンゲール本人は明らかにしていません。

恐らく、聖書によく出る『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という言葉ではないでしょうか。

フローレンスの超人的な偉業の背後には、多くの知人の犠牲がありました。クリミアの天使の裏には、一切の妥協を排除する冷酷さや残酷さを垣間見ることができるのです。

フローレンスは、幼少期からなじんでいた聖書の言葉から、自身が見過ごしていた短所を改めて認識したのではと思われます。

兵士の待遇改善

多くの知人が去ったことから、ナイチンゲールの陸軍への影響力は低下の一途をたどっていました。

しかし、逆にパーマストン首相みずから兵士の待遇改善に取り組むことになり、高官をフローレンスに元に派遣します。そうして、陸軍改革は急速に進められていきました。

さらに、統計局も設立されます。統計局は、労働者に対する社会保障制度にも大きく貢献することになります。

カール・マルクス『共産党宣言』

産業革命が始まり、資本家は労働者を低賃金で長時間働かせ、児童労働も当たり前になっていました。

下町はスラム街となり、空は工場の煤煙で覆われ、喘息が広がっていきました。テムズ川は工場排水で汚染され、結核やチフスも蔓延していました。当時、労働者の平均寿命は、15歳にもなっていたのです。

その惨状は、欧州にある怪物を生み出しました。

ヨーロッパに怪物が出る。共産主義という怪物である。

共産主義者は、既存の社会組織を暴力的に転覆することによってのみ目的を達成できることを宣言する。支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアはこの革命によって鉄の鎖のほか失うものは何もない。彼らの得るものは全世界である。

万国のプロレタリア団結せよ!

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』

ロンドンに亡命し大英図書館にこもったマルクスは、ついに共産主義思想という地獄の扉を開いたのです。

暴力革命によりプロレタリア独裁を成立させユートピアを建設するという机上の空論。そもそも、暴力と独裁が合わさったとき、何が起こるかはフランス革命での恐怖政治で明らかです。

ナイチンゲールの『首都貧救法』

パーマストン首相は、共産主義の出現に危機感を抱き、ナイチンゲールに貧困対策の法案起草を依頼します。

フローレンスは、国内法規を調べ上げ、緻密な立法案をしあげました。それは、マルクスのような机上の空論ではありません。病院の管理者やクリミアでの経験から、極めて現実的な内容だったのです。

まず、貧困者を健常者と病人に区別します。
その上で、まず病人には治療や看護を優先していきます。
一方、健常人には付加価値の高い職業訓練を施すことで自立できるプログラムを実行していくのです。

現在では、あたりまえの政策かもしれません。しかし、当時としては画期的な内容だったのです。

さらに、フローレンスは統計手法を駆使し、労働者の待遇改善にかかるコスト以上に、高い経済効果が生み出されることを明らかにしました。

イギリス最高の経済学者スチュアート・ミルをはじめ、共産主義思想の広まりを危惧した有識者もその立法案を高く評価します。そうして、1867年に首都救貧法が成立しました。

それ以降イギリスの社会保障制度は大きく前身していき、次第に共産主義への共感も国民から失われていくことになります。もしも、ナイチンゲールの活躍が無かったなら、イギリスで共産主義はもっと強い勢力になっていたかもしれません。

いつしか、フローレンスは欧州で最高の衛生問題の専門家となり、各国の法規にも精通することになっていました。

リンカーンからの特使

1861年にアメリカで南北戦争が勃発すると、リンカーン大統領の特使がフローレンスの元を訪れ、負傷兵の看護体制について協力を求めてきました。

フローレンスは、アメリカ中のあらゆる資料を取りよせ、 病室から一歩も外に出ることなしに、極めて高い水準の回答を準備します。

その貢献から、後にアメリカ統計学会の名誉会員の称号が贈られることになります。

ビスマルクからの特使

普仏戦争の際には、ビスマルクの特使もフローレンスの元を訪れ、兵士の衛生問題について意見を求めていきました。

戦場で死にゆく兵士のその虚ろな目を見れば、戦争を起こすことに否定的になるだろう。

勝利に終わる戦争といえども、常に一つの悪であり、政治は民衆をそれから守る努力をしなければならない。

ドイツ宰相 オットー・ビスマルク

普仏戦争で勝利しドイツ帝国を設立してからは、ビスマルクはひたすら平和外交に徹していきます。

さらに、国内の安定化のため、共産主義には弾圧を加える一方、ナイチンゲールの救貧法をお手本として社会保障制度を整えていくのです。

ナイチンゲール看護学校

ナイチンゲールは、政府の業務とともに看護学校も設立しました。看護師養成の機関が無かった時代に、学業に専念するため男女交際はいっさい禁止された上で、極めて高い教育が行われました。

卒業生の質の高さは欧州中で評判を呼び、あらゆる地域で看護教育の中核を担うようになっていきます。

フィリップ・モリス再起

1894年、フィリップ・モリスは債権者の差し押さえされ事実上の倒産に至っていました。

そのフィリップ・モリスをタバコ職人のトムソン家が引き継ぐことになりました。そうして、再び息を浮き返していきます。

当時、パイプからシガレットの移行期です。タバコ職人による小規模店がいたるところで勃興していたのです。フィリップ・モリス社もそのような家族経営の小規模業者の1つに過ぎなかったのです。

フローレンスの知古との死別

父母の死

1874年、もっともフローレンスを理解していた父が階段を踏み外し死去します。

一度たりともフローレンスを理解しなかった母もすっかり衰えて子供のようになっていました。フローレンスの心から母に対する『恨み』は消え、一人の看護師の戻ることを決心します。

6年後その母も死去します。

蓄音機

1890年に70歳となったフローレンスは、エジソンの発明した蓄音機に自分の声を吹き込みます。そのYouTubeを添付してみましょう。

胸像

77歳のときに、ヴィクトリア女王即位60周年を記念した博覧会が開催されました。そこで、記念碑としてフローレンスに胸像が依頼されました。

フローレンスは『そんなくだらないことを。記念碑は訓練された巣立っていった看護師たちです』ときっぱり断ります。しかし、委員会の説得を受けついに承諾します。

博覧会が開催され、ナイチンゲールの胸像の前には溢れるばかりの花束を備えられました。

その後も、世界中からフローレンスに面会希望者が訪れます。津田塾大学を創設者した津田梅子もその一人でした。

ヴィクトリア女王の崩御

1901年最大の支援者であったヴィクトリア女王が崩御します。空前絶後の繁栄を極めた大英帝国にも陰りが見え、一つの時代の終わりを告げようとしていました。新興国のアメリカ、ドイツ、日本が急速に国力を高めていたのです。

王室御用達フィリップ・モリス

ヴィクトリア女王の崩御を受け、エドワード7世が新国王に即位します。

愛煙家のエドワード7世は、ロンドンの小さな店に過ぎなかったフィリップ・モリス店を贔屓店にしていましした。即位とともに、フィリップ・モリス店を国王御用達に指定するのです。

フィリップ・モリスの名声は世界にとどろき、ニューヨークにも出店することになります。

晩年のナイチンゲール

晩年

ヴィクトリア女王の崩御から、幾ばくかも立たないうちにナイチンゲールはほとんど視力を失います。79歳です。

6年後の85歳、新国王エドワード7世より、フローレンスに女性としてのはじめてのメリット勲章が贈られました。しかし、そのころには、記憶もほとんど失い、その意味理解すらできる状態ではなくなっていたのです。

さらに5年後の1910年、フローレンス・ナイチンゲールは、静かに眠るように息を引き取りました。90歳でした。

告別

英国政府は親族に、国葬と王侯貴族の眠るウェストミンスター寺院への埋葬を打診します。しかし、フローレンスの遺書には、簡素な告別を希望する旨がはっきりと記されていました。

しかし、人々は簡素な告別を許さなかったのです。埋葬の日、聖マーガレット教会への道筋は人々で溢れかえりました。棺は、クリミアから生還した兵士により担がれナイチンゲール家ゆかりの墓地に運ばれました。

アメリカのニューヨークタイムズは、『これ以上に有益で感動的な人生があっただろうか』と最大級の賛辞をおくりました。

フィリップ・モリスの発展

アメリカ企業

ニューヨークにも出店し、拡大を軌道にのったフィリップ・モリス社は、1919年に突然、アメリカ人実業家に買収されることになりました。本社もアメリカに移転しました。

イギリス発祥のタバコ店はアメリカ企業として再出発をすることになったのです。

『マールボロ』販売の開始

アメリカ人実業家は『マールボロ』という銘柄に注目します。そうして、1924年、その『マールボロ』を女性向けのタバコとして販売します。

しかし、のちに『世界で最も売れるタバコ』となるブランドには、当時その後の成功を予感させる兆候は全く起きません。フィリップ・モリス社も、当時はアメリカ国内でのシェアが1%にも満たない小規模の弱小企業でした。

フィリップ・モリスの発展

 1933年フィリップ・モリス社は、自社名を冠したタバコブランド『フィリップ・モリス』を発売します。巧みな宣伝戦略とともに消費者の嗜好に合致したことから急激な人気を博すことになり、その後のフィリップ・モリス社発展の原動力となっていきます。シェアも1935年には9.6%となり、アメリカ人なら誰もが知る企業となったのです。しかし、まだ6番手の規模であり、弱小企業の1つに過ぎなかったのです。

巨大企業となるフィリップ・モリス

ついに、飛躍の時が来ます。

 経営陣は『マールボロ』の販売戦略の見直します。今まで女性向けに販売していたブランドを男性向けに変更します。宣伝には、古き良きアメリカをイメージできる西部を背景に、カウボーイを扮した俳優を起用しました。それにより、女性向けと敬遠していた男性が、『マールボロ』に魅了されることになりました。

1972 年『マールボロ』がトップシェアのタバコブランドとなります。

そして、1982年 についにフィリップ・モリス社は32.8%とアメリカ国内でトップのシェアに登りつめます。

19世紀、ささやかな生涯を過ごした名も無きタバコ職人フィリップ・モリス。しかし、職人として精魂こめて創り上げた『マールボロ』は、その後世界を席巻し、フィリップ・モリスの名も世界最大のタバコ企業として全世界にとどろくことになっていくのです。

統計学とタバコ健康被害

一方、19世紀にナイチンゲールが確立した看護教育は、現在の医療の高度化により、もはや過去のものとなっていきます。ナイチンゲール看護学校も1996年に閉鎖されました。

しかし、ナイチンゲールが黎明期を開拓した統計学は、20世紀になりさらに発展を遂げます。公害病の原因特定や、天気予報、マーケティング、証券とあらゆる分野に応用されていったのです。

さらに、当時薬効が信じられていたタバコの健康被害をも明らかにしていくのです。それは、アメリカのタバコ訴訟を引き起こし、巨大企業となったフィリップ・モリスを絶滅の寸前にまで追い詰めることになるのです。

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