シガレットつまり紙タバコが普及するのは、クリミア戦争以降です。
前回は、そのシガレットが普及する契機となるクリミア戦争でのフローレンス・ナイチンゲールの活躍を紹介しました。
今回は、イギリス有数の資産家の令嬢であるフローレンス・ナイチンゲールがなぜこのような過酷な仕事を引き受けることになったのかの話をしていきましょう。
さらに、無名のタバコ職人フィリップ・モリスの短い生涯についても紹介いたします。
目次
フィリップ・モリス創業
シガレットの普及
クリミア戦争以前のイギリスでは、もっぱら葉巻やパイプが中心でした。
しかし、クリミア戦争からの帰還兵は、野戦病院でロシア兵から貰ったシガレットの味を忘れる事は出来ません。イギリスでシガレット受容が爆発的に増加していきます。
タバコ職人フィリップ・モリス
当時パイプタバコ職人であったフィリップモリスも、品質の高いシガレットの製造に取り組みます。そのためにロシアやトルコ、エジプトから職人を招き、良質のシガレットの開発を進めたのです。
さらに、当時としては画期的な材料の由来もわかる品質保証の証明書もつけました。
創業者フィリップ・モリスについて生まれた年すらわかっていません。1873年に早逝しているもののそのときの正確な年齢すらもわかっていないのです。家族経営のタバコ職人として無名のまま生涯を終えたのでした。
呆然として立ち尽くす若き未亡人のみが取り残されました。
フローレンス・ナイチンゲール
数学少女
一方、フローレンス・ナイチンゲールの生涯は、大半が記録に刻まれています。1820年イギリスでもっとも裕福な大土地所有者の次女として生まれます。
父は、莫大な土地を相続するとともに、ケンブリッジ大学で学んだ学者肌の紳士でした。フローレンス・ナイチンゲールの優れた知性は、学者肌の父から受け継ぐことになります。
フローレンスに父親は高度な教育を施しました。その範囲はシェイクスピアをはじめ、フランス語、ドイツ語、天文学、物理学、歴史学、地理学と多岐にわたります。
なかでも、フローレンスの心を最もとらえたのは数学でした
少女時代のフローレンスが胸をときめかせた言葉が残っています。引用してみましょう。
霜が降りなくなった日からの、一日ごとの平均気温の二乗を合計していき、それが4264になればライラックは開花する。
近代統計学の父 ケトレー
フローレンスは、数学の論理だった体系に魅了されていき、飲食を忘れるほど数学の夢中になっていきました。そのため、両親は数学書を取りあげるのに苦労するぐらいだったのです。
享楽好きの母と姉
一方、母ファニーは有力政治家の娘で社交的であるものの、学術的なことは一切興味がありません。姉も母と同じように、晩餐会を好み、たわいもないおしゃべりに夢中になるような女性でした。
一家は、父とフローレンス、そして、母と姉に別れていきます。
パーマストン卿
そのようなフローレンスも思春期となり、美しい女性へと成長しました。
両親は、レディとしての教育のために、欧州大陸への連れていきます。美しさと知性を備えたフローレンスはイタリアでもフランスでも社交界の人気者となっていきます。
帰国後も、イギリス随一の政治家パーマストン卿の晩餐会にも出席していきました。
パーマストン卿。ナイチンゲール家と深い付き合いのある同郷の政治家であり、イギリス帝国主義の権化ともいう人物です。
1840年、外相としてアヘン戦争を強力に推し進め、その後は清帝国の半植民地を推し進めました。
また、植民地インドでの反乱には、徹底的な弾圧で望みました。
さらに、ロシアの南下政策を封じ込めるためトルコを支援し、イギリスの植民地帝国を盤石なものにしていきます。
英国は永遠の友人も持たないし、永遠の敵も持たない。英国が持つのは永遠の国益である。
パーマストン
パーマストン卿の好戦的な帝国主義政策は、平和主義的なヴィクトリア女王とは常に対立していきます。
数学への没頭
そのパーマストン卿の晩餐会でも、フローレンスは人気の的となっていくのです。
しかし、フローレンスは、うわべだけの虚栄心を張り合う社交界を嫌います。
そのような中でフローレンスの心を捉えたのは、やはり数学でした。高慢や自惚れのような感情を排し理路整然とした論理に魅了され、晩餐会にすらしぶしぶ出席するようになっていくのです。母ファニーは不満を隠しません。どうして、数学なのか。もっとレディにふさわしいことをなぜしないのか。
キリスト教信仰
そのような中で、突然『フローレンス、神に仕えよ』と神の声を聞きます。
ナイチンゲール本人によれば人生で4回神の声を聞いたということです。
当時、産業革命により、科学万能主義の思想が勃興していました。しかし、その反動も強く、伝統的なイギリス国教会への求心力も高まりを見せていたのです。
その信仰心がこのような幻聴を引き起こしたのでしょう。
ナイチンゲールのような現実を逃避し、理想主義的な人物にとって、イギリス国教会という伝統的な宗教組織が健全であったことが幸いしました。だからこそ、社会的に意義のある人生を歩んだといっても過言ではないのです。
現在のように伝統が崩壊した社会では、フローレンスのような理想を求める若者は共産主義運動や、イスラム国に引き込まれ人生を破壊してしまうことも少なくありません。
慈善活動
数学と並んで、ナイチンゲールが打ち込んだのが慈善でした。
当時、上流階級では、嫁ぐ娘たちの教育の一環として、貧しい労働者や農民の小屋になんらかの見舞品をもって訪問することが習わしとなっていました。
当時のイギリスでは凶作が続き、貧しい人々は飢えと不安に苦しんでいました。
フローレンスはその光景に衝撃を受け、慈善活動に没頭します。そうして、母ファニーすらためらいをみせるほど大量の衣料、薬、食料をせがんでいくのです。
看護師
フローレンスは、自分の生きる道を発見します。看護師こそ自分の生きる道と確信していくのです。
現代でこそ看護師は、付加価値の高い専門職として評価されています。しかし、当時の看護師は、社会の底辺の女性がわずかな賃金のために働く仕事でした。
裕福な者は家で療養することが習わしで、病院とは貧しい者の収容所に他ならなかったのです。
中世のカトリックが強い力を持っていた時代は、修道院が病人の看護にあたっていました。看護にあたるのは、道院のシスターであることから、倫理的な秩序が保たれていましした。
しかし、宗教改革によるプロテスタンティズムが興隆し、修道院は衰退の一途をたどります。同時に修道院の看護組織も崩壊し、病人は公園や公道に打ちすれられるようになったのです。
その後、政府が病院を再興するも、貧民の集まるおぞましい場所となっていたのでした。
両親の反対
フローレンスが看護師になりたいと両親に打ち明けたとき、母ファニーは震え上がり、そして怒り狂います。姉もヒステリーを起こし、父は絶望のあまりふさぎ込んでしまうのです。
フローレンスは、母の監視のもと、毎日山のような仕事を押しつけられ、父の前では、新聞の読み聞かせにつきあわされていくのです。
しかし、夜明け前に密かに起床し、公衆衛生の文献を読みあさっていきます。そうして、ドイツのカイゼルスヴェルト学園を見つけます。プロテスタントの牧師が近代的な医療のために設立した看護師養成学校です。
昼はカイゼルスヴェルト学園に思いを寄せ、白昼夢に浸っていきます。次第に精神のバランスを崩し、病に臥してしまうのです。
政治家ハーバートとの出会い
フローレンスは、療養のため、ナイチンゲール家と親しい知人夫妻に連れられローマ旅行に出かけることになりました。
そこで、入閣経験もある政治家シドニー・ハーバートと出会います。ハーバート夫妻は慈善事業にも積極的な資産家で、政府の医療改革をまさに進めていたのです。
フローレンスは、その後ハーバートとは生涯を通じて『戦友』となっていきます。
カイゼルスヴェルト学園の見学
1年後、さらに療養にエジプト旅行にも連れていかれます。
帰りには念願のカイゼルスヴェルト学園にも寄ることになりました。イギリスの病院のような不衛生な環境ではなく、ドイツ医学の黎明を思わせる清潔でしかも整然とした教育体制。フローレンスはすっかり元気を回復します。
しかし、帰国したフローレンスを待ち受けていたのは家族の罵声でした。
病院に行ったということを聞き、母と姉は『なんてみっともないことをするの』と泣きわめき、父は呆然とし書斎に引きこもってしまいました。憎しみがすべてフローレンスに向けられ、一家は騒然となっていくのです。
入学
そのような家族を説得したのはローマで出会った政治家ハーバートの夫妻でした。
今後、麻酔薬の進歩により、医師の往診で医療ができる時代は終わり、集約的な病院組織が必要となる。看護師は専門職として不可欠の時代となる。
ハーバート夫妻の説得により家族は渋々学園への入学に合意します。
学園に入学したフローレンスは、生き返ったように自分の未来を感じていきます。
あるときハーバート夫妻が学園に訪れました。学園長は、フローレンスは始まっていらいの優秀な人物であり、いずれ看護師の世界を変えることになるかもしれないと打ち明けたのです。
病院経営の依頼
卒園後、ハーバートは、フローレンスにロンドンにある婦人慈善病院の再建を依頼します。
大役に躊躇するフローレンスに、またもや神の声が聞こえました。
フローレンスは決断し、病院の再建に取り組むことになります。
大役を任されても母は『そんなくだらないこと』と冷ややかな姿勢を変えません。
しかし、父はフローレンスに理解を示すようになり、小遣いとして500ポンドを渡します。現在の3000万円に相当します。ナイチンゲール家がどれほどの裕福であったのか、理解できるのではないでしょうか。
経営者ナイチンゲール
フローレンスは、次々と病院の改革を行っていきます。
現在のナースコールもそのときつくられました。さらに、上の階に物品を運ぶリフトや、温水配管も整えていくのです。
医療従事者が雑用に追われることなく、効率よく業務を遂行できるためにさまざまな工夫をしていったのです。
また、当時は医療備品を、小売店からバラバラで購入していました。フローレンスは、物品帳簿を徹底し、大手店からまとめ買いを行いコストを下げていきます。
さらに、人事の合理化も進めていきます。
花を育てるには、肥料と水を両手に持って、常に両方をかけなくてはいけない。
うまく育てば美しい花壇になる。
育たなければ抜くしかない。
経営もそれと同じだ。元GE会長 ジャック・ウェルチ
改革は古参職員の反発も呼ぶことになります。しかし、フローレンスは『私の方針に従えない職員は辞めてもらいます』と強い姿勢で臨みます。そうして、方針に従えない職員は解雇されるか、自ら退職していったのです。さらに、無能な職員も退職していきました。
その浮いたコストで優秀な職員の採用を積極的に進めていきます。
そのようにして、看護体制は、理にかなうだけでなく、患者への心地良さも優先された環境に変わっていったのです。
フローレンスの経営手腕はロンドン中に知れ渡るようになっていきます。
しかし、平和な時は続きません。
パーマストン卿の更迭
1951年、パーマストン外相の帝国主義的な恫喝外交が、ヴィクトリア女王の逆鱗に触れ、更迭されることになったのです。
女王は世界中にメッセージを送ります。『おそらく世界中にとって、満足をもたらしてくれるような素晴らしいニュースをここにお伝えします。パーマストン卿はもう外相ではありません。』
しかし、その更迭をほくそ笑みながら眺めていた人物がいたのです。ロシア皇帝ニコライ1世です。『パーマストン外相いないイギリスなぞ怖くない』と、トルコへの領土割譲の野望をあからさまにしていくのです。
1853年、ついにクリミア戦争が勃発しました。
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