前回、シガレットが普及するクリミア戦争について記載しました。クリミア戦争は、ナイチンゲールが活躍したことでも知られています。むしろ、ナイチンゲールの活躍がシガレットの爆発的な普及を促したと入っても過言ではないのです。
目次
クリミア戦争
スクタリの野戦病院
ハーバート陸軍大臣の要請によりクリミアの地に向かったナイチンゲールら看護師団は荒れ狂う海を越え、1854年11月5日にようやくトルコのスクタリにたどり着きました。34歳の時です。
GoogleMapでスクタリ(ユスキュダル)の地を確認してみましょう。ボスボラス海峡を望む位置にあり、対岸にはイスタンブールがあります。
ナイチンゲールらがそこの野戦病院で目にしたものは、ひび割れた床に所狭しと寝かされた負傷兵の姿でした。その部屋や通路には汚物まみれの便器が何日も放置され、シラミやネズミ、ゴキブリがうごめいていたのです。
不衛生な環境からチフスやコレラも蔓延し、病院へ運ばれた後の死亡率は70%にも達していました。
ホール軍医長官
当時の医療体制を統括していたのは、ホール軍医長官という無責任官僚の象徴のような人物だったのです。
ホール長官は、ナイチンゲールが到着する1ヶ月前の10月にクリミアの着任したばかりでした。そこで、病院にろくにも足を運ばないで、『病院の施設は十分満足すべき状態で物品の欠乏もない』と本国に報告していたのです。
看護業務を許すなら、職務怠慢が明らかとなります。そのため、ナイチンゲールらの病院入室を拒否し、『大富豪の令嬢のままごとなぞ不要、我々には雑役兵がいる』と言い放ったのでした。
医師と協調体制を整わない限り、効率よく業務を進めることはできません。ナイチンゲールは、医師団の方から助けを求める機会を待つのです。
病人食
その間に、看護師塔の調理室で負傷兵のための食事づくりに専念します。病人食の準備なら、病院の入室しなくても対応できるからです。
当時、野戦病院の食事は劣悪で、スープは肉が生煮えで、さらに冷めてからの支給でした。しかも、その支給すら滞りがちだったのです。
このような食事では、病気を治す体力すら無くなってしまいます。ナイチンゲールは、マルセイユで大量の買い込んだ台所用品や食材を使い暖かいスープを支給し始めます。
イギリス本国以来の暖かい食事に、多くの兵士が感激します。そうして、少しづつ体力の回復する負傷兵も現れました。
官僚主義の壁
ほどなく、激戦から何千もの負傷兵が運ばれていきました。もはや医師や雑役兵で対応できる人数ではありません。医師団は、プライドを捨てナイチンゲールらに助けを求めます。
看護師団は、兵士の傷の手当や処置、毎日のガーゼ交換、さらに壊疽になった下肢の切断手術の介助と、フル稼働で働くことになります。
しかし、すぐに大きな壁にぶち当たります。医療品はおろか、寝具といった必需品にすら欠乏をきたしていたのです。
さらに、在庫帳簿の不備によって物資の有無すら確認できません。その上、物品の使用には、委員会の審査が必要だったのです。
包帯が必要となったときにナイチンゲールは、ポール軍医長官に詰め寄ります。『包帯と消毒液が足りない。この在庫を使わして下さい。』
ホール長官は薄笑いを浮かべながら答えます。『ミス・ナイチンゲール、軍の決まりを知らないようですな。この箱は委員会の許可なしで開けられない。委員会の審査が開かれるのは3週間後です。』
次の瞬間、ナイチンゲールは箱を叩き割りました。そして、唖然としているホール軍医長官に言います。『あら、開いているわね。持って行きますからね。』
天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。
ナイチンゲール
ナイチンゲールは、近代看護学の確立や、女性の地位向上という多くの『美しい花』をもたらしました。しかし、その過程は常に闘争に他ならなかったのです。ナイチンゲールの生涯は、まさに男性社会や官僚主義との闘争に明け暮れた人生と言っても過言ではないのです。
最強の女性支援者
なかでも最大の敵は、男性社会でした。当時は、イギリスででは女性の参政権すら認められていません。認められるのはようやく1913年になってからです。
しかし、そのような男性社会であっても、強い影響力を持つ女性もいたのです。彼女は、同じ女性としてナイチンゲールの状況を憂慮します。そうして、陸軍大臣を呼び出すのです。
当時の覇権国家イギリス。その陸軍大臣を呼びつける女性?
彼女はいったい何者なのでしょうか。その人物こそ、大英帝国の頂点に位置するヴィクトリア女王に他なりません。
女王は、『陸軍はナイチンゲールの看護活動を全面的に支援するように』と勅令を発します。さらに、ナイチンゲールの報告書について、一切厳封のまま女王に提出するように厳命したのです。
70%から2%に低下した死亡率
もはや、女王に逆らうことはできません。
ナイチンゲールは、女王の支持を背景に、野戦病院の衛生状態や、物品体制の改革を進めていきます。
当時はまだ細菌は発見されていないため、感染という概念はありません。しかし、ナイチンゲールは優れた観察眼から、兵士の死因は戦傷よりもむしろ、不衛生な処置にあることを見抜いていたのです。
野戦病院の外にある家を借りて、ボイラーも設置し洗濯小屋を作っていきます。
さらに、トイレも新調し、その洗浄も徹底させていきます。
また、医療物資の支給を整備し、シーツ、包帯も常に取り替え、病態の応じた食事の提供も整えていくのです。
もちろん、軍の予算には制限があります。しかし、ナイチンゲールの元には、タイムズ紙を経由した多額の寄付金がありました。それに加え、個人資産も用意していたのです。クリミア戦争でナイチンゲールが投じた個人資産は7000ボンド、現在の価格にすれば4億円を超える額になります。
その後、クリミアの経験は、近代看護学のもととなる『看護覚え書』として結実します。短いものなので、添付してみましょう。
1 換気と暖房 空気を適切な温度に保ち、換気を十分にすることが大切です。
2 住居の健康 きれいな空気や水、下水溝の整備や採光などに気を配ります。
3 小管理 チームを組んで看護をしている場合、リーダーが他の看護師の言動にすべて責任を持ちます。
4 物音 騒音や内緒話など、不必要な物音は患者さんに不安を与えます。
5 変化 よい環境の変化が気分転換となり、回復につながります。
6 食事 体調などに合わせて、食べられるようにする方法について注意を向ける必要性があります。
7 食物 栄養バランスの良い食物を摂取することが大切です。
8 ベッドと寝具類 こまめにシーツ交換をします。肌触りなど、患者さんに合った寝具であることも重要です。
9 陽光 健康維持や回復のために、陽光は必要なものです。
10 部屋と壁の清潔 こまめに掃除を行い、清潔を保ちます。ほこりを除くためには、濡れぞうきんで拭くことが効果的です。
11 からだの清潔 からだを拭くと気持ちもすっきりして、回復につながります。
12 おせっかいな励ましと忠告 よけいな話をして、却って不安を与えてはいけません。
13 病人の観察 看護師に貸す授業で最も重要なものは観察です。表情や顔色、排泄物などを観察して患者さんの体調がわかるようにします。
フローレンス・ナイチンゲール『看護覚え書』
読むだけで、ナイチンゲールが看護をしている様子が眼に浮かぶようです。彼女のこうした努力は身を結び、野戦病院の死亡率は急速に改善へ向かうことになります。
ナイチンゲールが赴任する前には、病院での死亡率は70%を超えていたのです。病院に向かうことは死を意味していたのです。
しかし、ナイチンゲールらの活躍により、死亡率は2%にまで激減することになります。
さらに、ナイチンゲールのリーダーとしての優れた資質から、冷ややかな視線であった多くの軍医も付き従うことになっていきます。ナイチンゲールは、病院のトップとしてマネジメントを行う立場となったのです。
クリミアの天使
もちろん、ナイチンゲールは病院を統率するだけでなく、みずから看護師としての業務も行っていきました。
夜間には、ランプを手に患者、負傷兵一人一人のいるベットを身をかがめながら、見回っていきます。
ナイチンゲールが通り過ぎる姿を目にしただけでどんなに慰めになったことか。
彼女はある者には言葉をかけ、他の多くの者には黙ってうなずきながら微笑を投げかけていった。
もちろん、われわれは何百何千人といたので、全員にそうすることは不可能であったが、それでもわれわれは、通り過ぎていく彼女の姿に接吻し、それから満足に枕の頭を埋めるのであった。
クリミア戦争に参加したイギリス兵の手記
シガレットによる一服
看護団は、敵も味方も分け隔て無くすべての負傷者の手当をしました。そこでは、ロシア兵もイギリス兵も違いはありません。
高い死亡率から、野戦病院に入院した兵士の多くは、死を覚悟していました。しかし、ナイチンゲールらの改革により死亡率が激減したことから、負傷兵の多くは一命を取り留めることになったのです。
そこで、イギリス兵は、ロシア兵からシガレットつまり紙タバコを教わります。もともと、ロシアのシガレットは、吸いやすいだけでなく、臭みを濃厚な芳香で消し去ることもできる高品質なものでした。
イギリス兵は、ロシア兵から教わったシガレットにより一服し、生きたことを実感することになったのです。従軍カメラマンの先駆者ロバート・フェントンは、イギリス兵が新聞紙で巻いたシガレットに火ををつける様子を写真に収めています。
当時はタバコの害は明らかにはなっていません。むしろ、その清涼感から、医薬効果すら期待されていました。イギリスの帰還兵は、クリミアでのシガレットによる安堵感を生涯にわたり忘れることはできなくなります。本国に帰国してからもシガレットを求め続けることになるのです。
そうして、イギリスでのシガレットが急激に普及していきました。
熱狂するイギリス国民
ナイチンゲールの活躍は、特派員により本国に送られ、タイムズ紙で報道されていきます。さらに、帰還兵たちは、ナイチンゲールを『クリミアの天使』や『ランプの貴婦人』と讃えていきます。
さらにヴィクトリア女王もナイチンゲールの貢献に感謝の意を表明しました。
報道は過熱していき、ナイチンゲールへの人気は熱狂的となっていきます。ナイチンゲールの人形や肖像画が販売され、ナイチンゲールを讃える流行歌までつくられていくのです。
女の子が生まれたときには、フローレンスという名前をつけることも流行っていきます。
医師団からの賞賛
現地のクリミアでも、当初はナイチンゲールらに懐疑的であった医師団の多くが、賞賛を惜しまなくなってきました。
勇気と高い志を持った女性たちに対する冷遇はやがて、懇親的な働きから感謝の気持ちへと、自己犠牲をいとわない働きぶりは畏敬の念へと変化していった。
1855年、野戦病院の医師
ホール長官の抵抗
しかし、最後までナイチンゲールらに反発する医師もいたのです。その筆頭がホール長官に他なりません。『あの女のおかげで、私のメンツは丸ぶれだ』と憤慨し、本国にナイチンゲールの不正を報告していくのです。
イギリスからの調査団がクリミアに訪れました。しかし、不正があるはずありません。逆に、軍組織の無策が多くの兵士の死をもたらしたことが明らかになったのです。
1856年、パリ条約が結ばれクリミア戦争は終結しました。
ナイチンゲール36歳の時です。
クリミア戦争後
その後、ナイチンゲールはクリミアの過労により、残りの人生の大半をベッド上でのねたきりの生涯を過ごすことになります。看護師としての業務は3年ほどしかありません。
しかし、その後ベット上で、世の中を大きく変えていく学問的業績を残していくのです。その最大の功績は数学です。ナイチンゲールは、本国イギリスでは、近代看護の確立者以上に、優れた数学者として評価されているのです。その数学者としての実績こそが、20世紀後半に巨大企業となったフィリップモリス社を絶滅の縁にまで追い詰めることになるのです。
では、どうして、大富豪の令嬢であるフローレンス・ナイチンゲールがこのような過酷な仕事を引き受けることになったのでしょうか。また、数学者としてどのような実績を上げていったのでしょうか。
次回以降で、フィリップモリスの歩みともにみていくことにしましょう。
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