現在、健康被害がクローズアップされ、喫煙率は急激に減少しています。その結果、シガレット(紙タバコ)の出荷も減少の一途をたどっています。
今回、そのシガレットの普及と衰退の移り変わりをフィリップ・モリス社を軸に見ていくことにしましょう。
目次
シガレットの普及
タバコの歴史
タバコの歴史は、古く紀元前10世紀のマヤ文明にも遡ります。その後、コロンブスが新大陸に到達することで、ヨーロッパにも伝わりました。
まさに、嗜好品として悠久の歴史を誇っていると言っても過言ではありません。
シガレットの黎明
しかし、その年月に比べ、シガレット(紙タバコ)の歴史は決して古くありません。19世紀中旬になってようやく普及したに過ぎないのです。
それ以前の18世紀から19世紀初頭にかけて人気を博していたのはパイプや葉巻でした。シャーロック・ホームズが愛用したのもパイプです。
しかし、19世紀中旬に市民階級の台頭に伴いシガレットが急激に普及していきます。
タバコ職人フィリップ・モリス
タバコ職人フィリップ・モリスがシガレット制作に没頭していったのもその時期でした。
現在、フィリップ・モリスの名は、世界的なタバコ企業に冠されています。しかし、その規模に比し、創業者フィリップ・モリスの生涯はほとんど知られていません。それは、家族経営のタバコ職人としてのささやかな生涯に過ぎないからです。
その後、自分の名が世界的なグローバルとして全世界に知れ渡るとは思いもしなかったでしょう。
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【フィリップモリスがまだ弱小企業だった時】タバコ王デュークの栄光と挫折 その1
シーゲル博士によるバリュー投資の研究によって、タバコ企業が高いリターンをもたらしていることが明らかにされています。そのタバコ企業の中でも、アメリカのフィリップモリス社とイギリスのブリティッシュアメリカ ...
クリミア戦争
初めての近代戦争
19世紀中旬にシガレットが急速に受容される背景はクリミア戦争です。
現代、クリミア戦争はその後の二度にわたる世界大戦の影にかくれ、小規模の地域紛争として捉えられています。
しかし、当時は産業革命により工業化を遂げた列強諸国同士の初の大規模戦争に他ならなかったのです。しかも、覇権国家イギリスと、それに挑戦するロシアとの全面戦争でした。
戦争により、イギリス社会は大きく変貌し、シガレットが爆発的に普及することになりました。
それは、ベトナム戦争でアメリカ社会が大きく引き裂かれ、麻薬の蔓延を引き起こされたことと何ら変わりはないのです。
クリミア半島
黒海を除く風光明媚で温暖なクリミア半島。
しかし、その穏やかな光景と裏腹に、多くの大国が抗争を繰り広げていきました。GoogleMapを添付してみましょう。
フランクリン・ルーズベルト、チャーチル、スターリンが会談したヤルタもクリミア半島の一角にあります。
最近でも、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナにロシア軍を侵攻させ、クリミア半島を実行支配したことは記憶の新しいところです。
もともと、極寒の地ロシアには、冬は氷に閉ざされる港しかありません。そのため、一年中利用できる不凍港を求めて南へ領土を拡大する南下政策を基本としていました。 温暖な黒海を望むクリミア半島は、冬でも凍ることはありません。
ロシアの南下政策
クリミア半島は、15世紀にモンゴルからオスマン帝国の支配下に移ってきました。
18世紀末になると、ロシアの女帝エカチェリーナ二世は、弱体化したオスマン帝国からクリミア奪い支配下に置きます。
しかし、黒海から地中海へ抜けるためには、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡を通過しなければなりません。イスタンブル近くの海峡がそれにあたります。そこはオスマン帝国の支配下です。
1853年、ギリシャ正教徒の保護者を自認するロシアは、オスマン帝国領内の正教徒保護を口実に、バルカン半島の実行支配を要求しました。
当然、オスマン帝国は拒否します。
イギリス参戦
そうして、ロシアはトルコへ宣戦を布告し戦闘が開始されるのです。それがクリミア戦争です。
イギリスは、ロシアの地中海進出により、インドの支配権が脅かされることを恐れました。ロシアの南下政策を阻止するため、フランス、イタリアの小国サルディニアと同盟を結び、トルコを支援します。
これはトルコを支援するかではなく、英露どちらが世界を支配するかの問題だ。
イギリス内相 パーマストン
産業革命を遂げたイギリスの国力
クリミア戦争は、産業革命によって工業化を進めた英仏と、農業国ロシアとの国力の差をはっきりと世界に示しました。
英仏の兵力はあわせて7万人。しかも戦場は本国から遠く離れています。
一方、ロシアの兵力は100万人にものぼります。しかも戦場であるクリミアは自国領とその近辺でした。本来ならロシアの圧勝のはずです。しかし、その利点を生かすことができないほど、英仏との技術力に差が付いていたのです。
ロシアは、ナポレオン戦争での焦土作戦により、国土の荒廃が進み、近代化が大きく遅れていました。しかも、皇帝の専制政治により社会が停滞し、装備もほとんど進歩していなかったのです。大砲の着弾距離は英仏軍の半分しかありません。武器弾薬・糧食・兵員の輸送も荷馬車を使っていました。雨が降るとぬかるんで通行困難となり、物資の供給も滞ります。
一方の英仏は、クリミア半島まで蒸気船で、軍隊を派遣します。さらに港から前線まで鉄道を建設して物資を運び、駐屯地には水道も設けました。
産業革命を遂げた英仏の圧倒的な戦闘能力の前に、ロシア軍は100万人のうち、50万人が戦死し大敗を喫します。
日本開国
世界中で展開される紛争
しかし、クリミア戦争は、黒海に留まるものではなかったのです。
当時、イギリスは七つの海を支配する帝国として、世界中の植民地を保有していました。一方、ロシアはユーラシア大陸の広大な領土を有しています。イギリスとロシアという超大国の戦闘は世界中で展開されていきます。
バルト海でも、英仏艦隊が展開され、フィンランド沿岸を制圧します。
クリミア戦争の極東戦線
さらに、遠く離れた日本にも影響が及びます。クリミア戦争こそが、日本開国の原因に他ならないのです。
クリミア戦争開戦当時の1853年、日本は幕末の時代を迎えていました。日本近海には、ロシアやイギリスの西洋列強の艦隊が絶え間なく現れるようになっていたのです。それは、日本近海が、クリミア戦争の最前線となっていたからに他なりません。確かに、大規模な戦闘が回避されました。それは、圧倒的なイギリス艦隊の前に、ロシア艦隊は逃げることに徹していたからです。
しかし、カムチャッカ半島では、実際に戦火が開かれました。英仏海軍は連合は、1854年8月にカムチャッカ半島のロシア軍要塞に砲撃を行い、9月に上陸しました。しかし、地上戦でロシア軍の反撃にあり、大きな犠牲を出して撤退していきます。
ロシアの圧力
当時ロシアは不凍港の確保のために、日本に開国と補給港を要求していました。しかし、イギリスは、日本に中立を要請します。
もしも、ロシアと条約を結ぶなら、そのままロシアの勢力下に入り、植民地化を免れることはできません。しかも、覇権国家イギリスと敵対することになります。
一方、イギリスと条約を結ぶなら、その後ロシアに侵攻の口実を与えることになります。
江戸幕府は、イギリスとロシアの戦争に巻き込まれないで開国する方法を模索します。
ペリー艦隊
その時、当時の新興国アメリカのペリー艦隊が、太平洋への補給路確保のため、日本の開国を求め浦賀に姿を現しました。
当時のアメリカは、まだ新興の中等国に過ぎません。時の超大国イギリス、フランス、ロシアには到底及びません。浦賀に現れた黒船7隻は、アメリカ海軍のほぼ全軍だったのです。しかも、クリミア戦争では中立を保っています。江戸幕府としても、まだ交渉しやすい相手であり、翌年1854年に日米和親条約に漕ぎ着けます。
ロシアの対馬占領
1856年のクリミア戦争終結後も、日本近海では、イギリス艦隊とロシア艦隊のにらみ合いが続いていました。
1861年には、ロシアは対馬に上陸し実効支配します。大国ロシアに対馬藩はおろか幕府もなすすべがありません。
結局、幕府はイギリスを頼ります。イギリスは軍艦2隻を対馬に派遣します。不利を悟ったロシアは対馬から撤退しました。
イギリスはそのまま対馬を占領することも検討しました。しかし、当時、イギリスは、インドでセポイの反乱の戦後処理に追われていました。しかも、清帝国で勃発した太平天国の乱の鎮圧にも参戦していたのです。とても対馬を統治する余裕はありません。結局、軍艦を引き上げることになりました。
メディアの発達
史上初の特派員
話をクリミア半島に戻しましょう。
産業革命により卓越した工業力を整えたイギリスは、圧倒的な兵力差にもかかわらず、戦闘を有利に進めていきました。
もちろん、決して戦死者は少なくありません。しかし、それでも損失割合は、ナポレオン戦争と同等でした。
ところがクリミア戦争の時代に、市民社会が成立したイギリスでは、新聞社が大きな力をもちつつありました。新聞社は初の特派員を戦場に送りこみ、戦場写真家と戦場画家も加わります。そうして、最新ニュースは、蒸気船や電信で本国に伝えられたのです。
報道される負傷兵の境遇
ニュースにより、戦況だけでなく、負傷兵の悲惨な状態も絶え間なく報道されていきました。負傷して野戦病院に搬送された兵士は、麻酔もされることなく手足を切断されていきます。入院費は兵役手当から差し引かれ、不衛生な手術により多くの兵士が感染症で命を落としました。さらに、コレラや発疹チフスも容赦なく襲いかかり、軍隊は病人の群れと化します。おびただしい数の死亡した兵士が、ぞんざいに大きな穴のなかにまとめて埋められていったのです。
強力な軍事力に支えられ繁栄を謳歌していたイギリス国民は、報道から戦争の現場がいかに残酷であるかを知り愕然としていきます。
次第に、戦時病院の体制を整える世論が高まっていくことになるのです。
ハーバート陸軍大臣
当時のイギリスのハーバート陸軍大臣は、負傷者の治療体制を整備する必要に迫られました。
『あの人しかいない』そう考えたハーバート大臣は、イギリス有数の大富豪の次女に現地出向を依頼します。
広大な土地を保有するイギリスきっての大土地所有者であり、産業革命を支える多くの炭鉱や鉱山も保有しています。さらに、イギリス中に広大な屋敷を構え、庭には丘が伸び川が流れているのです。まさに目のくらむような大富豪と言うほかありません。その家系こそ、
ナイチンゲール家に他ならないのです。
その次女こそあのフローレンス・ナイチンゲールその人です。上の写真は、ナイチンゲールが少女期を過ごした実家です。
もしも、クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍が無ければ、シガレットはそこまで普及しなかったかもしれません。
次回、ナイチンゲールの活躍がどのようにして、シガレットの普及に繋がったのかを見ていきましょう。
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