前回の記事は、ローレンが、大投資家である叔父テンプルトンのいるバハマ諸島に訪れたところから始まりました。活況の株式市場に陶酔していたローレンは、そこで歴史上のバブルとその崩壊の話を聞くことになります。
束の間の休暇を終えたローレンは、喧噪のニューヨークへと戻っていきました。
目次
アメリカ経済の復興
ITバブル
時は1999年、IT企業は未曾有の好景気を謳歌し、人々はアメリカの永遠の繁栄に酔いれていました。
しかし、テンプルトン叔父からバブルの話を聞いたローレンは、冷めた眼で高騰する株式市場を眺めます。もはや、以前のように狂乱の心を奪われることはなくなっていたのです。
強気相場は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。
ジョン・テンプルトン
テンプルトンの格言の通り、今『楽観の中で成熟』している株高は、近い将来に『幸福感の中で消えていく』に違いない。そのように確信を深めていくのです。
『永遠の繁栄』を謳歌しているアメリカ。
しかし、ほんの10年前、アメリカ経済が再起不能の不況に陥っていたことすら、すっかりと忘れ去られていたのです。
日本企業に惨敗したアメリカ企業
1989年、アメリカ経済はまさに瀕死とも言える状態でした。かつて、アメリカに繁栄をもたらした自動車や家電製品は、日本製品にことごとく駆逐されてたのです。
アメリカ製の家電は、SONYや東芝の前に敗北を屈し市場から姿を消しました。GMやフォードの自動車工場も閉鎖が相次ぎ、世界の自動車市場はトヨタやホンダの日本車が席巻していたのです。
1990年、タイム誌ですら『20世紀末になり象徴的なことは、日本が経済超大国として台頭したことである』と述べていたのです。21世紀まであと10年、日本による世界経済支配は、さらに強くなることを誰もが確信していました。
1989年当時の世界時価総額ランキングを30年後の現在と比較してみましょう。出典は『週刊ダイヤモンド』です。当時の日本経済がいかに強かったかが忍ばれます。
当時、共和党ブッシュ大統領は、アメリカ自動車産業の復興のため、先進国首脳と会談し輸入枠の交渉を進めていました。しかし、日本の駐車場にすら入りきらないアメリカ車が、売れるはずもありません。
ブッシュ政権は、経済復興を遂げることなく、1期で敗北することになります。
強気相場は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。
ジョン・テンプルトン
しかし、その時こそアメリカに投資をすべき時期だったのです。絶望の『悲観の中に』、復興の胎動がまさに『生まれ』つつあったのです。
クリントン政権によるアメリカ経済の復興
1993年、民主党ビル・クリントンが大統領に就任しました。
ビル・クリントン大統領は、選挙中より『情報スーパーハイウェイ構想』を公約に掲げていました。自動車や家電のような重工業を復活させるよりも、情報産業という新産業を勃興さることでアメリカ経済を浮上させることを考えていたのです。
それは、軍事技術のインターネットを民間開放し、『すべての家庭、企業、研究室、教室、図書館、病院を結ぶ情報ネットワークをつくる』ことで、企業効率を向上させるとともに、新産業の勃興を図ることなのです。
しかし、その構想は、ビル・クリントンによる立案ではありません。優れたブレインによるものだったのです。そのブレインこそ、2016年の大統領選でトランプに敗れ去ったヒラリー・クリントンに他ならないのです。
ヒラリー・クリントン
ガソリン・スタンドのエピソード
ヒラリー・クリントンについて、このようなエピソードが伝えられています。
クリントン大統領夫妻は、ヒラリーの故郷近くでドライブをしているときに、あるガソリンスタントに立ち寄りました。すると、ガソリンスタンドのオーナーがヒラリーの昔のボーイフレンドだったのです。
ビル・クリントンは言いました。『ヒラリー、君は僕と結婚してよかったね。もし彼と結婚していれば、今頃君は田舎のガソリンスタンドの奥さんになっていたんだね。』すると、ヒラリーは肩をすくめて言い返したのです。『何を言ってるの。もし私が彼と結婚していたら、今、大統領になっているは彼よ。』
まさに、ヒラリー・クリントンの勝ち気な性格を現しています。しかし、それは誇張ではなく、半分は正解です。
ビル・クリントンの政策やスピーチのほとんどすべては、ヒラリー・クリントンの手によるものです。ヒラリーなしでは、政治家としての輝かしい業績はあり得なかったのです。
しかし、ビル・クリントンのように誰からも憎まれることのないキャラクターであったからこそ、リーダーに選ばれたことも否定できないのです。
アーカンソー州
ヒラリーは、名門イェール大学卒業後、マサチューセッツ州で弁護士としてキャリアを積んでいきました。
一方、ビル・クリントンが故郷アーカンソー州で下院議員選挙に立候補することになります。アーカンソー州は、米国内でももっとも貧しく遅れた州の一つです。ヒラリーのように前途有望な女性弁護士がキャリアを磨くような場所ではありません。
しかし、ヒラリーは運命を感じ、『私は、自分の頭ではなく、心に従うこと』を決断し、アーカンソーへ行くことになります。
下院議員選での善戦
アーカンソー州では、共和党支持者が圧倒的であり、民主党で出馬するビル・クリントンは世論調査で24%対60%と大差をつけられていました。しかし、ヒラリーが選挙対策に加わったことから、支持率は急激に上昇します。結局は、僅差で敗れたものの、一時はリードすらすることになっていたのでした。
選挙前、ヒラリーはキング牧師を信奉する理想主義的な女子学生の面影を残していました。
しかし、その選挙で理想論では勝てないことを思い知ります。そうして、選挙後は、結果のためには手段を選ばない、野望のためにはいかなる汚い手を使っても実現する鉄の女へと変貌していくのです。
知事選挙
4年後には雪辱を果たします。ビル・クリントンは32歳の若さでアンカンソー州知事に当選することになります。
しかし、州内のキューバ難民の施設で暴動が発生し、難民を受け入れた知事の責任が追求されます。その結果、再選をかけた知事選では、共和党ホワイト候補に大差で敗れることになるのです。
ビルは打ちのめされ、もともとの優柔不断な性格から引きこもり、相手候補への祝福スピーチすら逃げだしてしまうのです。かわりにヒラリーが、関係者や支持者への対応と、次の知事となるホワイト夫妻への挨拶という気の重い仕事をすべてこなしたのでした。
『ビルに投票すればヒラリーもついてくる』
ヒラリーは、豪腕弁護士として順調にキャリアを歩みながら、夫ビルの知事再選に向けて動き出します。組織だった仕事が苦手なビルにかわり、ヒラリーが政策立案、選挙戦略スケジュール管理、スタッフ人事のすべてを仕切っていくのです。スピーチにもヒラリーの校正が容赦なく入っていきます。
ヒラリーの精力的な活動により、ビル・クリントンは現職ホワイト知事を大差で破ることになります。
当選後、ヒラリーはアメリカで、最も教育水準の低いアーカンソーの教育改革に取り組むことになります。困難があっても鉄の意志で、州の全域をくまなく回り問題点を抽出し、解決策を遂行していくのです。
州議会での成果報告のプレゼンでは、議員が催眠術にかかったように聞き入りました。出席していたロイド・ジョージ下院議員は『どうやら私たちは間違った方のクリントンを選んでしまったみたいだな』と感嘆の声をあげます。
ビル・クリントン知事は、実質的には『ヒラリーによる院政』となっていきます。
次の知事選で、相手陣営はビルではなく、ヒラリーを標的とします。知事権限の濫用や、手段を選ばないヒラリーの資質問題について集中砲火が浴びせられました。
しかし、『ヒラリー院政』により、州行政は極めて安定してきのです。有権者の『ビルに投票すればヒラリーもついてくる』という声に支えられ、知事選に圧勝します。
女性スキャンダル
しかし、順風満帆にはいきません。
その後、ビル・クリントンの女性スキャンダルが次々と起こるのです。
ヒラリーは、一時は離婚を真剣に考え、自分自身が知事選に出ることも検討します。そのため、世論調査で、ヒラリーが知事選に出た場合の項目もいれることにしました。結果は、予想以上に厳しいものでした。
たしかにビル・クリントンは優柔不断で決断力を欠くものの、誰にもでも優しく接する態度は、多くの有権者の好感を呼んでいたのです。一方、ヒラリーは、高い能力と鉄の実行力があるものの、冷淡で鼻持ちならない態度はリーダーとしては不適切と有権者から敬遠されたのです。
今は、自分が政治家となる時期ではない。そう考え、夫ビルを政治家として出世させることに専念します。もちろん、ヒラリーは知事夫人として生涯を終えるつもりはありません。いつか夫を大統領にするとともに、自分自身も女性初の大統領になる野望を抱いていたのです。
湾岸戦争でのアメリカ圧勝
チャンスが到来します。
1990年イラクのフセイン大統領がクェートに軍事侵攻しました。1991年、その制裁のためにアメリカ軍主体で湾岸戦争が開戦されるのです。アメリカは、短期間で圧勝し、ベトナム戦争敗北の悪夢を払拭します。現職ブッシュ大統領の支持は高騰し91%にも達したのです。
現職ブッシュ大統領の再選が確実視され、民主党の有力候補は次々と大統領選出馬を取りやめます。
ヒラリーは、そこに勝機を見いだします。大物が出馬を取りやめた今なら夫ビルを民主党大統領候補とすることは困難ではない。しかも、現職ブッシュ大統領には致命的な弱点がある。
湾岸戦争勝利の直後で支持率は急騰している。しかし、足下の景気は一向に改善の兆しがみられない。ヒラリーは、以前ブッシュ大統領と話しをしたときに、国内の経済情勢すら十分に把握できていないことを見抜いていたのです。
今後、ブッシュ大統領の支持率は必ず低下する。大統領選で逆転することはできる。
『情報スーパーハイウェイ構想』
しかし、ビル・クリントンは優柔不断さから、決断を下せないまま時間が経過していきます。しかも、数字が苦手で経済政策は得意ではありません。一向に改善の兆しの見えないアメリカ経済に怖じづいてしまうのです。
しびれを切らしたヒラリーは、『今を逃すなら大統領になる機会は二度と来ることはない!』と警告を発し、デットラインの日程を設定しました。さらに、アメリカ経済復興のプランを立案します。
当時、世界の自動車市場を支配していたトヨタ。多くの専門家は、そのエンジンの優秀さや故障の少なさのような技術を注視しました。しかし、ウォルマートの社外取締役をも務めたヒラリーは、その強さをトヨタのカンバン方式に求めます。必要な時に、リアルタイムで物資を供給する体制によるコスト削減を強さの根源と考えたのです。
そのためには、軍事技術のインターネットを民間開放し、リアルタイムで情報を伝達できる仕組みを構築することにより対抗できる。インターネット技術によりトヨタのカンバン方式をしのぐ効率的な運営をアメリカ企業にもたらすことができる。
それこそが、『情報スーパーハイウェイ構想』の基礎となっていくのです。
『テレビの消える日』
そこには、新保守派の経済学者ジョージ・ギルダーの存在もあったのです。
1990年、ギルダーは『テレビの消える日』を出版しました。一部を引用してみましょう。
テレビは過去の遺物で 19 世紀のアイスボックス (氷の冷凍庫)だ。
日本のテレビ技術をコピーするまでもなく、米国には世界に誇るコンピュータ産業、テレコム産業があるのだから、米国の経営資源を集中的に『テレビ後の時代』 に振り向けるべきだ。
これからは『テレコンピュータ』の時代になる。これは、世界中の映像処理用のパソコンを、光ファイバーで結んだものと考えればいいだろう。テレビのような一方通行のものではなく、電話のように双方向の送信が可能なこのテレコンピュータは、言語通信の分野で電話が電報に大きく勝ったように、映像通信の分野で完全にテレビをしのぐようになるだろう。
ジョージ・ギルダー著『テレビの消える日』
ITによる効率化は、従来の産業を復興させるだけではありません。当時世界を席巻していた日本製品を『時代遅れの遺物』とする新産業を構築することも可能なのです。情報通信産業こそがアメリカ経済復興の鍵と考えたのです。
日本がバブル経済絶頂期にあるとき、現在のIT産業のよう未来を思い描くギルダーの能力には驚嘆の他ありません。
最近、ギルダーはまたも予言的な問題作を出版しました。『Googleが消える日』です。
ビル・クリントン大統領就任
ようやく出馬の決心のついたビル・クリントンは、『情報スーパーハイウェイ構想』による経済復興を公約に選挙戦を戦います。
そうして、1992年大統領選挙に勝利するのです。
1993年、大統領に就任すると、アメリカ全土に情報ネットワークを構築するために集中的に予算を投じました。さらに、シリコンバレーを中心に、新興IT産業の育成に莫大な投資が進めらていきます。
強気相場は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。
ジョン・テンプルトン
その後、アメリカ経済は壊滅的な不況から抜け出し、『懐疑の中に育』っていくことになるのです。
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