バーゲンハンターとしてあまりにも有名な大投資家ジョン・テンプルトン。
今回、そのテンプルトンを叔父にもつローレン・テンプルトンの話から進めていくことにしましょう。
目次
ITバブル
投資銀行への就職
ローレンは、1998年に大学を卒業し投資銀行モルガン・スタンレーに入社しました。当時は、ニューエコノミーの時代が幕をあけ、株式市場は空前の活況に沸いていました。大学を卒業したばかりの新人ローレンは、未曾有の熱狂に酔いしれていきます。
パナマでの休息
翌年の1999年はじめ、ローレンは、騒然としたニューヨークを離れ、バハマ諸島に訪れました。偉大な投資家テンプルトン叔父に会いにいくためです。ジョン・テンプルトンはウォール街の喧噪を嫌い静かなバハマに移住していたのです。
ローレンは昼食の後、大投資家を前にして話題のこまり、『叔父さんは、ハイテク株を買ったことはあるの?』と尋ねました。
しばらく沈黙が流れました。その後、この大投資家は微笑んで話し出しました。
『少し話しをさせてくれ』
金融バブル
ジョン・テンプルトンは、今までの金融バブルについて多くの語りはじめました。
17世紀のオランダで起きたチューリップバブル、
フランスの投機家によるミシシッピバブル、
イギリスの南海泡沫バブル。
1907年恐慌
一次大戦前のアメリカ最大の恐慌
話題は、アメリカの金融危機に及びました。
最初は、1907年恐慌の話題となります。
確かに、アメリカでの恐慌は1929年の暗黒の木曜日があまりにも有名です。
しかし、第一次大戦までは、1907年恐慌こそがアメリカ史上で最悪の金融恐慌だったのです。
1865年に南北戦争が終結し、アメリカは急激に発展していきます。鉄道や電話の新技術により人々の生活は劇的に変化し、経済成長率は7%にも達しました。
自動車産業
1900年に入り、さらに新しい技術の黎明期に入ります。
自動車です。
1900年代初め、揺籃期の自動車産業には、参入障壁はほとんどありません。大規模な製造会社というよりも部品の組み立て会社にすぎず、設立に大した資本は必要なかったのです。そのため、1900年から1908年にかけて、500社もの自動車会社が市場にひしめき合っていました。
終わりなき成長
自動車の出現により、モータリゼーションという『新時代』が幕を開けます。
そうして、投資家の期待は、終わりなき成長という野放図な楽観論へと突き進んでいったのです。『自動車産業の成長には中断がなく一直線に拡大することは確実である』、多くの投資家はこのように考えました。
下振れリスクを無視した楽観論により、自動車企業というだけで、赤字企業にも法外な資金が流入し、株価は高騰しました。
『今回は違う』、誰もがそのように確信したのです。
暴落
しかし、その株式市場は突然終焉を迎えます。
1906年4月にサンフランシスコで大地震が発生しました。地震によりガスのパイプラインが破損しました。そこから漏れ出たガスに引火し、サンフランシスコの半分が灰燼と化したのです。
当時、アメリカの西海岸には、鉄道やインフラ投資が集中的に行われ、急激な経済成長を遂げていました。
その成長神話が崩壊し、ニューヨーク株式市場は急落します。
また、欧州の損害保険会社は、サンフランシスコの投資案件に対し、多額の損害保険を結んでいました。大地震により、保険会社は巨額の支払い義務が生じ、運用していた株をこぞって売却しました。そうして、世界中で同時株安が進行します。
恐慌
また、サンフランシスコ復興のための大量の資金需要が必要となりました。
当時の世界経済の中心はロンドンです。アメリカ企業は、ロンドンから莫大な資金を調達しました。そのため、ロンドンの金利が高騰し、世界中の企業が資金不足に陥ります。
アメリカでも多くの銀行が、取り付け騒ぎで倒産しました。証券業務の中心であった信託会社の倒産も相次ぎます。
そうして、ニューヨーク証券取引所の株価指数は、ピークから最大で43.5%も下落したのです。
当時の自動車株は、いまだ十分な利益がでないまま、期待値のみで高騰していました。金融恐慌に耐えられるはずもなく、ほとんどが倒産し、その残骸のみがうち捨てられたのです。自動車株への投資家もほとんどが市場から姿を消すことになります。
1929年の大恐慌
史上最悪の金融恐慌
少し沈黙が流れました。
その後、テンプルトン叔父は、『暗黒の木曜日』として知られる1929年10月24日のニューヨーク株式市場の崩壊について話し始めました。
世界経済の繁栄を根底から覆し、その後全世界を悲惨な第二次世界大戦に引きずりこむことになる歴史上もっとも有名な金融恐慌です。
未曾有の繁栄
第一次大戦終結後、戦禍を逃れたアメリカは未曾有の繁栄を謳歌することになります。世界経済の中心はロンドンからニューヨークに移り、世界中の投資資金がアメリカに流れこみました。
新技術の発達により、『大量消費社会』が幕が開け、大衆は好景気に熱狂します。
その象徴こそが自動車に他なりません。
ヘンリー・フォード
自動車産業の黎明期である1905年、500社にも及ぶ自動車企業がひしめき合っていました。アメリカ国内の自動車台数は約8万台に過ぎなかったのです。
しかし、ヘンリー・フォードの出現により激変します。
フォードは、流れ作業による大量生産と、無駄を徹底的に省いたコスト削減により、自動車の価格を一般大衆でも手が届くところにまで下げることに成功します。その自動車こそ、時代を一変させたT型フォードです。
T型フォードにより自動車産業は急拡大し、フォード社は市場を支配することになります。
さらに、ヘンリー・フォードは労働者の最低賃金を倍増し、アメリカ中から尊敬と賞賛を集め、時代の寵児となっていきます。そうして、自身も世界一の富豪にも登りつめていくのです。
自動車中心の社会
1921年に、アメリカ国内の自動車台数は1000万台に到達しました。その後も増加のスピードを落とすことはなく、1926年には、2200万台に達することになります。
どこへでも、好きなところへ走っていける自動車は、アメリカのような広大な国にとっては理想的な乗物です。各地にガソリンスタンドが作られ、ハイウェイが建設されるようになりました。道路沿いにはドライブインが生まれ、郊外にショッピング・センターも誕生しました。次第にアメリカは自動車中心の社会へと変貌していきました。
電力の普及
自動車とならび、『大衆消費社会』の到来を象徴したのが電力です。各地に電気がひかれ、石油ランプにとってかわり電灯が急速に普及しました。静寂の覆われた夜の町は、華やかな夜景へと変貌し、大衆のライフスタイルも一変します。
ラジオも急速に普及し、放送されるベーブルースの活躍やリンドバークの大西洋単独飛行に、大衆は熱狂しました。
冷蔵庫、アイロン、洗濯機のような家電製品が続々と発売されていきました。
活況に沸く株式市場
アメリカの繁栄により、株式市場も未曾有の活況を呈します。
一夜にして巨額の富を得た物語はいたるところで伝えられ、証券会社の窓口は、金儲けに夢中になっている人たちでいっぱいになったのです。
八百屋、運転手、鉛管工、お針子、めぐり酒場の給仕と、誰もが株式市場に参入しました。
病院の待合室の患者たちの話は株式市場のことでもちきりとなり、理髪店の客は蒸しタオルのあいまに株の上がり下がりの話をしました。
株価はときどきはげしい勢いで下落したが、そんなときに買いこんで おけば、しばらくするとかならず前の高値よりも高い値段に押しあげられました。
当初冷ややかな視線を注いでいたインテリでさえ、強気相場の熱気のなかに没入していくことになります。
幸福への道は遙か彼方まで広く開かれているようにみえました。もしも1ヵ月にわずか1万ドルを貯蓄して、これを優良株に投資すれば、20年後には少なくとも8万ドルになると説かれていきます。
『今回は違う』
ハイウェイには何千の自動車があふれ、丘の頂から頂へと何本もの電線により電力が送されるようになりました。かつての村落だった地には高層ビルがそそり立ち、人々は華奢な夜景に酔いしれます。
もはや誰もがアメリカの永遠の繁栄を信じて疑いません。
1929年の株高は、好調な企業業績を反映した株価でした。市場のPERは17程度に過ぎません。1907年恐慌のような期待値だけのバブルとは決定的にことなります。
誰もがさらなる株高を期待しました。人々は口々にこう言います。
『今回は違う』
最も高くつく4語
ここで、テンプルトン叔父はすこし間をおきました。そうして再度、話を続けました。
最も高くつく4語は『今回は違う( This time is different )』だ。
ジョン・テンプルトン
『自動車そして電力はその後の世界を永遠に変えた。しかし、』
テンプルトン叔父は再び沈黙しました。
『その株から撤退すべき時期は何年も前のことだったのだ。』
『暗黒の木曜日』
企業の収益は、割賦販売や銀行ローンといったレバレッジのかかった消費により成立していました。しかも、その返済は株式の値上がりをあてにしてものだったのです。
大衆の購買力も限界に達し、株の買い手も先細りとなります。次第に自動車も家電も在庫が増えていきました。
そうして、1929年10月24日、歴史上『暗黒の木曜日』とその名を刻まれる大暴落が訪れます。
朝より、怒濤の売り注文で株式市場は幕を明けます。取引所は大混乱となりました。1時間ごとに数%の下落が襲いました。不安にかられ大衆は取引所の集まっていきます。混乱を沈めるために治安部隊も出動しました。
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大恐慌
2ヶ月後には、株価は半分にまで下落します。
その年だけで、千を超える銀行が倒産し、多くの人々は預金を失いました。
我が世の春を謳歌していた証券マンも失職し、リンゴ売りとなっていきました。
公園には、ホームレスに溢れ、飢えた人々は配給に長い列をなすことになります。
世界貿易は7割も減少し、グローバル交易は崩壊しました。アメリカのGDPは4割も下落することになります。
倒産寸前となるフォード社
デトロイトのフォード工場も、レイオフの嵐が吹き荒れます。1929年3月には12万人にものぼった従業員が、1年半後の1930年9月には、三分の一以下の3万7000人にも減少しました。
さらに、フォードの労働組合と管理者との衝突が起こり警察も介入しました。そこで、催眠ガスや放水、そして実弾射撃も加わり死傷者も発生したのです。
かつてアメリカ中から敬意を集めたフォードは、旧体制の悪の権化となりっていきます。その後、フォード社は倒産寸前にまで陥っていくのです。
フォード社の敗因
ここで、テンプルトンの話を中断し、フォード社低迷の原因を説明していきましょう。
もちろん、大恐慌が原因であることは言うまでもありません。しかし、暗黒の木曜日以前から、T型フォードの売れ行きは鈍化し、GMのシボレーの追い上げを受けていたのです。
フォードがGMの後塵を拝するようになった背景についての記事を添付します。
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資本主義の墓場
1933年、ダウ平均は最高値から87%も下落しました。
もはや廃墟のような証券取引所が取り残され、資本主義の墓場を思わせる光景でした。
一方、社会主義革命により誕生したソ連は、5カ年計画を成功させ世界有数の工業国へと変貌しました。
誇り高きコロンビア大学の経済学派ですら、資本主義の終焉を声高に叫び、社会主義の計画経済こそが人類を救うと唱え始めたのです。
誰の眼にも資本主義は崩壊の道を歩んでるように写りました。
株式投資の機会
『しかし、』
テンプルトン叔父は少し間を置きました。そうして、再度語り始めます。
『その時こそ、株式投資を行うまたとない機会に他ならなかったのだ。』
テンプルトン叔父の話は終わりました。
束の間のバハマでの休暇が過ぎ、ローレンは、喧噪のニューヨークへと戻ることになります。
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