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1997年瀕死のAppleを支援した投資家 その1【アラビアのバフェット】

投稿日:2019/7/13 更新日:

1997年にAppleに投資をしていれば、現在300倍以上になっているという人もいます。

果たしてそのような投資が可能でしょうか。

目次

瀕死のAppleへの投資

倒産寸前のApple

ジョブズが復帰した1997年、Appleはまさに死の縁をさまよっていました。

資金は従業員の給料の2ヶ月分しかなく、主力商品のパソコンMacintoshは売れば売るほど赤字だったのです。もはや倒産は時間の問題でした。

よほど天才でない限りそのような投資ができるはずもありません。

Appleへの巨額投資家

しかし、当時のAppleに1億ドル(120億円)を超える巨額を投じた投資家が2人もいるのです。

一体、どのような人物なのでしょうか。これから、そのような投資家を紹介しくことにしましょう。

アラビアのバフェット

今回紹介する1人目の投資家は、『アラビアのバフェット』と称される、サウジアラビアのアルワリード王子です。

産油国の王子であることから、石油によって築かれた資産と思われるかもしれません。しかし、そうではありません。バフェットと同様に投資によって築かれたもであり、フォーブスでビル・ゲイツに次ぐ世界第2位の資産家とランクされたこともあるのです。

かつて、その卓越した運用能力によりニューヨークタイムズから『アラビアのバフェット』と賞賛されました。

「これほど尊敬されている投資家と比べられるのは光栄だ。」

アルワリード王子は答えました。
しかし、バフェット本人は不満を隠しません。

「『アラビアのバフェット』の称号は、アルワリード王子に失礼である。むしろ、私が『オマハのアルワリード』と称されるべきである。」

アルワリード王子

父親の王位継承権剥奪

アルワリード王子は、1955年に砂漠の覆われたサウジアラビアで生まれました。

サウジアラビア初代国王の孫にあたり、まさに王家直系のサラブレットです。しかし、父親タラールは初代国王21番目の息子であり、王位を継承できる可能性はほとんどありません。しかも、若いころに社会主義思想に傾倒し、王籍を剥奪され、ナセル社会主義政権下のエジプトに亡命していたこともあるのです。

ナセルは、イギリスとの独立戦争を戦い抜き、さらにエジプト王権を倒し最高指導者となった百戦錬磨の人物です。しかも 権謀術数の限りをつくす共産主義者です。お坊ちゃん育ちの父親タラールが渡り合える相手ではありません。

父親タラールは考えの甘さを思い知ります。2年後サウジアラビア王に謝罪し、復帰を認められ帰国しました。しかし、体面を汚したことで、一切の政治活動を禁じられ、王位継承権も剥奪されました。

息子であるアルワリード王子も、王位を継承できないばかりでなく、政府内での出世も閉ざされます。

ビジネス界への活路

王子は、ビジネス界に活路を求め、アメリカのメンロ大学で経営学を学ぶことになります。

卒業後、父から貸与られた3万ドルを元手に、2部屋のプレハブ小屋からビジネスを開始しました。しかし、3ヶ月で資金は底をついたのです。

シティバンクによる支援

そのときに、支援したのが米シティバンクです。プレハブ小屋を担保の30万ドルの融資を受けることに成功します。

プレハブ小屋に30万ドルの価値もありません。にもかかわらず、それだけの支援をしてくれたことに、恩義を生涯にわたり忘れることはなかったのです。

11年後、シティバンクが倒産の危機に瀕します。そのときに、救済の手を差し伸べることになった人物こそ、その後投資家として巨万の富を築いたアルワリード王子に他ならないのです。

建設業への参入

シティバンクの融資により、再起を図ることができた王子は、建設業に参入します。そうして、リヤドの士官学校の独身寮建設の請負を受注することに成功しました。

当時は1980年、サウジアラビアは、巨大な石油埋蔵量から、世界最大の産油国の地位を揺るぎないものとしていました。経済は急激に拡大し、道路、空港をはじめ建設ラッシュが起きていたのです。

政府は、オイルマネーを民間に還元するために工事受注額を高めに設定していました。王子は、次々と建設の受注を請け負い、急激に資産を拡大させていきました。

外国企業へのスポンサー業

好景気にわくサウジアラビアに外国資本も次々と参入します。

当時、外国企業が事業展開するためにはサウジアラビア人のスポンサーをつけ官庁の認可を得ることが必要でした。

アルワリード王子は、外国資本のスポンサー業務を手がけることになります。

当時、多くのスポンサーは、高額の斡旋料を取るだけで何もしないことが普通でした。しかも、待ち合わせの場所に時間通りくることすらほとんどなく、連絡すら取れないことも少なくなかったのです。

そのような中で、アルワリード王子は、時間を厳守し、早朝の打ち合わせも厭いません。

しかも、官庁の許可を得るために、王子本人が直接足を運び、粘り強く交渉を進めていくのです。王子という絶大な肩書にくわえ、詳細に準備された申請書類から、速やかに認可されていきます。

評判が評判を呼び、次々と依頼が舞い込んできました。

1983年には、資産額は4億5000万ドルにまで到達します。

世界的投資家

銀行の買収

アルワリード王子は、その資金を元手に投資家としてのキャリアを開始します。

まず、経済の要である銀行の目をつけます。さまざま業界の資金の流れを把握するとともに、参入への糸口をつかむことができるからです。

そうして、倒産寸前の地方銀行を買収し、米国仕込み合理化とコスト削減により2年で黒字転換させるのです。

さらに、多くの国内銀行を手中に収め、サウジアラビアで5位の銀行グループを形成していきます。

小売への参入

銀行から資金の流れを把握したアルワリード王子は、食品事業に注目します。景気にかかわらず、キャッシュが滞りなく続くからです。

サウジアラビア最大のスーパーマーケットチェーンの株を取得し、別のスーパーマーケットグループと合併させます。そうして、サウジアラビアでシェア45%を握る小売企業を手中に納めました。

サウジアラビア最大の富豪となり、総資産も40億ドルを超えるようになっていました。

ブランドへの投資スタイル

小売での資金の流れを観察することで、社会を動かしている大きな力に気づくことになります。それは、無形資産であるブランドです。

王子は確信しました。「現在は、ブランドが付加価値を持つ時代である。ブランドが消費者の心を捉え、高い利益率をもたらすことになる。」

王子は、ブランド価値への投資スタイルに移行していきます。もちろん、やみくもにブランド企業を買いあさるわけではありません。ブランドが傷つき存亡の危機に陥っているときに、自らの投資により再生できると判断するなら、集中豪雨的に資金を投下するのです。

外国企業への投資

1991年、外国のブランド企業に投資をする機会がやってきます。

シティバンクです。

中南米諸国への不良債権から経営危機になり、倒産寸前にまで陥っていたのです。

アルワリード王子に巨万の富をもたらしたビジネスの原点は、シティバンクからの30万ドルの融資です。王子は、その恩義を終生忘れることはなく、借入契約の控えを、執務室の引き出しに、大切にしまっていました。

シティバンクの経営危機を聞き、真っ先にニューヨークに駆けつけ、周囲の反対を押し切り6億ドルにも及ぶ資金援助決めたのです。そうして、シティバンク株の5%を保有する筆頭株主となります。

シティバンクの業績は急激に回復し、王子の資産も急激に膨らんでいきます。

20年間で平均23.5%のリターン

突然、世界に知られることになるアラブ王室の投資家に、欧米の投資家は、シティバンクの一発屋と揶揄しました。

しかし、アルワリード王子の投資リターンが公開され、息をのむことなります。

20年間の、平均投資リターンは23.5%。サウジアラビア国内のみなら、投資リターンは35%以上にもなるのです。

世界的名門ホテルへの投資

世界的な投資家として知られるようになった王子は、欧米の名門ホテルや不動産に、次々と投資をしていきます。

経営不振に陥ったカナダの名門ホテル・フォーシーズンズ。

事実上経営破綻した、フランスのユーロ・ディズニー。

経営危機に陥った大型プロジェクトが、アルワリード王子の投資により、次々と息を吹き返していくのです。

欧米の経営者の間で、驚嘆の声が浸透します。「誰の目にも破綻とうつるプロジェクトが、結局は王子のいうとおりに復興する。」

アメリカでの視察

1997年、アルワリード王子は新たな投資物件の視察のため渡米します。

しかし、そこで見たものは、急激に発展しつつあるテクノロジーでした。インターネットが爆発的に普及し、MicrosoftやYahooが日の出の勢いで、社会に浸透していました。

王子は、情報技術こそが今後の発展の鍵を握ることを確信します。

そうして、不動産プロジェクトへの投資を中止し、IT(情報技術)への投資へと舵を切っていくのです。

つづく

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